ボック『エドワード・ボックのアメリカ化』全訳(24)ルーズベルトの匿名の論説
この記事は、雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」を30年間率いた編集者エドワード・ボック(1863〜1930年)が1920年に出版した自伝『The Americanization of Edward Bok』(翌年ピュリッツァー賞を受賞)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。原文では著者自身を三人称の「エドワード・ボック」と書いており、訳文もそれに従っています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。
連載の構成(全39回)
- アメリカでの最初の日々
- 初めての仕事:週給50セント
- 独学への渇望
- 大統領との交友とボストン巡礼
- ロングフェローと劇場へ
- フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧
- ウォール街に飛び込む
- 新聞配信の事業を始める
- ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり
- 初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ
- 成功のチャンス
- 砲火の洗礼
- 出版の出来事と逸話
- ニューヨーク最後の年
- 編集者として成功する
- 女性誌の編集者としての最初の数年
- ユージン・フィールドのいたずら
- 雑誌を育てる
- 人柄が伝わる手紙
- いくつかの挫折
- 建設的な仕事の見本
- 街と個人の芸術への挑戦
- セオドア・ルーズベルトの影響
- ルーズベルトの匿名の論説(この記事)
- 大統領と少年
- 文学の裏階段
- 女性クラブと女性参政権
- キプリングとの帰郷と講演旅行
- 女性の本質への小旅行
- 売薬などの悪弊を一掃する
- 市民生活への取り組み
- 戸惑うボック
- 何百万人に届く方法
- 戦時の雑誌と戦時の活動
- 大戦の前線で
- 30年の編集者生活の終わり
- 第三の時期
- アメリカが私に足りなかったこと
- 私がアメリカに負っているもの
第24章 ルーズベルトの匿名の論説
「ひげそり中の取材」
セオドア・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領だったころ、ある晩、ボックが彼と座って話していると、ルーズベルト氏が突然ボックのほうを向き、いつもの力のこもった調子で言いました。「ボック、読者に対する君の力がうらやましいよ」
編集者のボックは、正直なところ面くらいました。
「合衆国大統領のお言葉とは思えませんね」と彼は答えました。
「そう思うかもしれない」と大統領は切り返しました。「だが聞きたまえ。私が世間に耳を傾けてもらえるのはいつだ? いちばん忙しいときだ。私の教書は新聞に載り、あわただしく読まれる。たいていは路面電車や鉄道の客車の中の男たちにだ。女性はまず読まないだろうと思う。ところが君の雑誌は、夜、暖炉のそばやランプの下で読まれる。一日の仕事が終わり、ほかのことから解放されて心が落ち着き、君が差し出すものを受け入れる気になっているときにだ。君が私より有利な点がどこにあるか、わかるだろう?」
この見立てはとても興味深く、その晩の残りの時間、大統領が話しているあいだ、ボックは考えていました。そしてついに言いました。「大統領閣下、私の力をあなたと分かち合いたいのですが」
「どうやって?」とルーズベルト氏は尋ねました。
「女性があなたの教書を読まないことは、ご自身も認めておられます。それなのに、女性が知っておくべきで、頭の中できちんと整理しておくべき倫理的な問題を、これほど多く論じた大統領の教書はほかにありません。今のままでは、あなたのお考えのいくつかは、女性にまったく理解されていません。たとえば、あなたの『奮闘的生活』の理論や、工場法についてのお考え、とりわけ『民族の自殺(出生率の低下)』をめぐるご主張です。それを言うなら男性も十分には理解していませんが、女性はまず間違いなく理解していません」
「そのことは全部わかっている」と大統領は言いました。「それを正すための君の案は何だね?」
「私の雑誌にコラムを設けて、あなたのお考えを説明するのです」とボックは提案しました。
「これ以上何かをする時間はない。君も知っているだろう」と大統領はぴしゃりと返しました。「時間があればいいのだがね」
「ご自分でお書きにならなくてもよいのです」とボックは答えました。
「こういうことなら、時間をつくっていただけるのではないでしょうか。ここワシントンで、あなたがその正確さを最も全面的に信頼している記者を選びます。その記者が毎月1時間、そうしたテーマの一つについてあなたと話をします。記者があなたの見解を書き上げ、原稿をあなたにお見せします。そしてコラムには、材料をどのように得たのか、どこまでがあなた自身の仕事なのかを正確に明記します。そうすれば毎月たった1時間の仕事で、あなたの見解を正確に伝えた形で、路面電車や客車の中にいないときのこの膨大な読者の前に届けることができます」
「だが、その1時間がないのだ」とルーズベルトは答えましたが、ボックの見たところ、心を動かされていました。「起きているあいだで本当に手が空いているのは30分しかない。ひげをそってもらっているときだ」
「それでは」と編集者のボックは落ち着いて提案しました。「その30分を月に2回、あるいは1回でも、いただけませんか」
「何だって?」と大統領は背筋を伸ばして言いました。歯がきらりと光りましたが、笑顔は大きく広がっていました。「このオランダ人め、ひげをそってもらっているあいだまで私を働かせようというのか?」
「ですが」と答えが返りました。「その成果は、手間をかけるだけの価値があるのではないでしょうか?」
「ボック、君はまったく容赦がないな」と大統領は言いました。「だが、君の言うとおりだ。成果は手間に見合うだろう。どの記者を考えているんだ? すっかり考え抜いてあるようだが」
「オブライエンはいかがです? あなたは彼を買っておられますよね」
(ロバート・L・オブライエンは、現在はボストン・ヘラルド紙の編集長ですが、当時はボストン・トランスクリプト紙のワシントン特派員で、大統領から全面的に信頼されていました。)
「いいね」と大統領は言いました。「オブライエンなら全面的に信頼している。よろしい、オブライエンにこれを引き受けてもらえるなら、やってみよう」
こうして「ひげそり中の取材」が始まりました。そして1906年の初め、レディース・ホーム・ジャーナルに「大統領」というコラムが登場しました。副題は「家庭の重大な利害にかかわる国の問題について、大統領の姿勢を、大統領をよく知り、身近に接している記者が紹介するコラム」でした。
オブライエンは月に1回ルーズベルト氏と話をして、その内容を書き上げ、大統領が校正刷りに丁寧に目を通しました。コラムは1年間続き、大成功を収めました。
誰にも知られなかった匿名コラム
しかしセオドア・ルーズベルトは、ふたたびレディース・ホーム・ジャーナルのコラムの担当者になることになりました。今度は本人が執筆し、しかも考えうる限り厳重な匿名で書くというものでした。その匿名は徹底して守られたので、ここで明かすまで、筆者を知っていたのはわずか5人だけでした。
セオドア・ルーズベルトの考えが、その躍動的な人柄の権威に支えられなくても、どこまで通用するかを見るのは興味深い実験になるだろうと考え、ボックは大佐にこの計画を持ちかけました。ちょうどルーズベルトが南米旅行から戻ったばかりのころでした。彼はすぐに興味を示しました。
「だが、どうやって筆者を本当に匿名にしておけるんだね?」と彼は尋ねました。
「簡単ですよ」とボックは答えました。「あなたが手間を惜しまないのであれば。この件についての手紙は手書きにして、お互いの自宅あてに送ります。原稿はあなたご自身の手で書いていただきます。私がそれを自分の手で書き写し、その形で印刷所へ回します。校正刷りは私が個人的にお送りします。あなたが鉛筆で訂正を書き込み、私がそれをインクで書き写します。会社は記事ごとに私に原稿料を払い、私が毎月、自分の個人小切手をあなたにお送りします。こうすれば、筆者の正体は隠せます」
ルーズベルト大佐は、価値があると思う成果を上げるために必要であれば、大変な仕事をいとうことは決してありませんでした。
「よろしい」と大佐はついに書いてよこしました。「1年間、この実験を――君と一緒に!――やってみよう。12本の記事だ……。君の読者を満足させられるかどうかはわからないが、精いっぱいやってみる。いずれにしても、君と組めるのはとてもうれしい。最初はこの計画が賢明かどうか疑った。ただ単に、君が望んでいるものをそのとおりに出せるかどうか疑わしかったからだ。私には、読者が何を望んでいるかはいつもわからない。読者が何を望むべきかはわかっている。そしてときには、それを与えることができるし、必要だと思うものを受け入れさせることもできる。できないときもある。だが、君の提案を考えれば考えるほど、気に入ってきた……。看板がなくても客を引きつけるほど良いワインかどうかはわからない。それに、そういう場合、悪いのはワインではなく、看板がない限り注意を向けようとしない飲み手のほうなのだよ!」
1916年の後半、「男性」という匿名のコラムが雑誌で始まりました。
体を使う手間は大変なものでした。大佐は約束の条件をきちょうめんに守り、原稿も手紙も自分の手で書きました。ボックも取り決めの自分の役割を果たしました。これも簡単なことではありませんでした。ルーズベルト大佐の原稿は、とりわけ今回のように黄色い紙に柔らかい鉛筆で書かれ、行間にたっぷり書き込みがされているときなど、とても読みやすいとは言えなかったからです。来る月も来る月も、二人はそれぞれ自分の仕事に取り組みました。世間の目をそらすため、コラムの連載中には、ルーズベルト大佐が本名で書いた記事を1、2本、雑誌の別のページに載せました。また、コラムの中で匿名の筆者がときどき自分自身の言葉を引用することもありました。
女性誌に男性向けのコラムが登場したのですから、すぐに注目を集めたのは当然でした。コラムは男性の生活のさまざまな関心事を取り上げました。本当の意味での能率、雇い主としての務めと従業員に対して果たせる役割、雇い主に対する従業員の姿勢、男女の関係、父親と息子や娘との関係、地域社会に対する男性の務め、公立学校の制度、男性と教会との関係、そしてそれに近い話題です。
述べられている意見が断固としたものだったので、記事の匿名性はすぐに関心を集めるようになりました。しかしルーズベルト大佐は、いつもの文体で書いていたにもかかわらず、足跡を徹底して消していたので、コラムと彼の名前が結びつけられたことは一度もありませんでした。はじめはライマン・アボットだろうという「推測」が有力でした。その後さまざまな著名人の名前が挙がったあと、新聞は最終的に、ハーバード大学の前学長エリオットが筆者だと結論づけました。
こうしたことすべてに、ルーズベルト大佐は大いに興味をそそられ、面白がりました。自分の記事を批判する文章を何本も書いてエリオット博士に送りたくて、うずうずしていたほどです。しかしボックは、記事のためにすでに費やしている以上の手間をかけないよう大佐を説得しました。というのも、大佐はそのうえ、寄せられた多数の手紙に返事の内容を書き込んでおり、ボックがそれをもとに「筆者に代わって」返事を出していたからです。
コラムは1年間続きました。そのあいだずっと、筆者の秘密を知っていたのは、大佐とボック、それぞれの妻のほかには、たった1人だけでした!
大佐はこのシリーズの最後の記事をボックに送ったとき、こう書いてきました。
「仕事が終わった今、君がいつも変わらず示してくれた礼儀と親切に、心から感謝したい。私は自分の仕事に満足していない。注文どおりにきっちり書こうとしたのはこれが初めてで、私はそれをうまくこなせる才能のある人間ではないのだ。たいてい、3,000語という長さが合わず、2,000語か4,000語にしたくなる! その結果、記事を水増ししたか、切り刻んだかのような気がしてしまう。それに、毎月、与えられたテーマについて言う価値のあることがあると、いつも感じられるわけでもない。
「だが、君をあまりがっかりさせていなければよいのだが」
ボックはがっかりなどしていませんでしたし、読者もそうでした!
原稿の査読者として
一方でボックは、雑誌にとって特に重要な原稿をルーズベルト大佐に読んでもらい、助言をもらう取り決めもしていました。この仕事でも、ルーズベルト大佐はいつもの迅速さと徹底ぶりを発揮しました。原稿はどんなに長くても、大佐の手元に48時間、たいていは24時間もないうちに読み終えられ、報告書が書かれ、記事は送り返されてきました。報告書はいつも内容が包括的で、例外なく面白いものでした。ふつうの「査読者」の意見にありがちな、型どおりの味気なさはまったくありませんでした。彼はいつも報告書に自分自身を注ぎ込み、そのため当然ながら、温かい人間味が感じられました。原稿の掲載を勧められないときは、いつも理由を十分に説明し、しかも決して個人的な偏りはありませんでした。
あるとき、ボックは、その見解が大佐の信念と食い違っているに違いない原稿を送りました。大佐がそのテーマについて強い意見をもっていることを知っていたので、ボックはどんな批評が返ってくるだろうと思っていました。報告書はすぐに返ってきました。彼は記事を丁寧に検討し、最後にこう結んでいました。「もちろん、これは私自身の見解とまったく食い違っている。この筆者は完全に間違っていると、私は心から信じている。それでも、彼の側の主張としては、私がこれまでどこで読んだものよりも優れた論を展開していると、はっきり言っておく。雑誌はあらゆる問題について両方の側を示すべきだと思う。もしこちらの側を示したいのであれば、この記事で示すことを強く勧める」
サガモア・ヒルにて 1916年4月26日
これは実に注目すべき物語、深く心を打つ物語である。移民の少女がアメリカ人になっていく物語で、彼女は赤ん坊のころから若い女性になるまでのあいだに、ある隔たりを跳び越えている。その隔たりは、外面的な面でも、人間らしさを形づくる本質的な面でも、彼女の祖先が先立つ千年のあいだに苦労して歩んだ距離よりもはるかに重要なものである。われわれがアメリカ文明のある種の成り行きに気落ちしそうになるとき、この同じ文明が、ほかの土地では権利を拒まれてきた飢えた気高い魂たちに何をもたらすのかを見ることは、大いに価値がある。ここでは、その権利はすべての人に開かれた当然のものとされている。もっとも、われわれは、断固とした真剣さで努力しようとするすべての人がその権利を得られるようにすべきであるのに、そうできてはいないのだが。私はこの物語を心から推薦する。
セオドア・ルーズベルト
(特別な原稿の査読者として、セオドア・ルーズベルトが書いた「報告書」の一つ)
ボーイスカウトの指導者に
それからまもなく、ボックはルーズベルト大佐に、まったく新しい活動に乗り出してもらおうと決めました。交渉が始まりましたが(ああ、遅すぎました! 1918年の秋のことだったのです)、まだ試みの段階だったので、公表されることはありませんでした。ボックはルーズベルト大佐に、アメリカの少年たちに年2万5,000ドルを投資したいと伝えました。20年後にはアメリカの大人になり、今われわれが取り組んでいる問題を実際に解決してくれるはずの少年たちです。
いつものような健康で力強い様子ではないことはあまりにも明らかでしたが、ルーズベルト大佐はたちまち身を乗り出しました。
「すばらしい!」と、歯を光らせて彼は言いました。「これ以上の投資先はどこにもない。どうやってやるつもりだね?」
「あなたにアメリカ・ボーイスカウト(Boy Scouts of America)の実際の指導者になっていただき、その金額を毎年、固定の給与としてお支払いするのです」
大佐は一瞬、黙ってじっと前を見つめました。それから昔ながらのルーズベルトの笑顔を満面に浮かべ、歯をきらりと光らせて、彼が「誘惑者」と呼んだボックのほうを向いて言いました。
「実にうまい言い方だったな。いや、本当にうまい言い方だった」
「そうですか?」とボックは答えました。「そう思っていただけてうれしいです。ですが、この案を受けていただけるかどうかは?」
「それは別の問題だ。まったく別の問題だよ。団体のほうはどうなんだ? あそこには私をまったく認めていない人間もいるんだよ」と彼は言いました。
ボックは、団体は自分の申し出について何も知らないこと、これはまったく非公式なもので、純粋に個人的な考えであることを説明しました。アメリカ・ボーイスカウトには指導者が必要だと自分は信じている。大佐こそ、生まれもったあらゆる資質から見て、その指導者にふさわしい合衆国でただ一人の人物だ。スカウトたちは大佐のもとに結集するだろうし、大佐が呼びかければ、当時40万人だったスカウトは100万人以上に増えるだろう、と。さらにボックは、もしルーズベルト大佐がそうした指導者の地位を前向きに考えてくれるなら、自分と全国組織とのつながりで、この話を全国の役員たちに持ちかけることは十分にできると思う、役員たちはきっとこの機会を歓迎するだろう、とも説明しました。ただし、それを大佐に保証することはできませんでした! 役員たちが歓迎すると言える権限は彼にはなかったのです。それでも、ルーズベルト大佐にこの考えを受け入れる気持ちはあるでしょうか?
はじめ、大佐にはぴんと来ませんでした。しかし彼は、30分の話し合いでできる限り徹底して検討しました。そしてついに、これまで自分が手がけたどの仕事にも劣らないものになるかもしれない、建設的な仕事をする機会であることが、彼の心をとらえました。
「私に実際の指導者になれということかね?」と大佐は尋ねました。
「それ以外のものになれますか、大佐?」とボックは答えました。
「そのとおりだ」と大佐は言いました。「それでいい。実はね」と彼は考え込みました。「イーディ(ルーズベルト夫人)は、私がそういうことをするのを喜ぶかもしれない。1920年に私がいたずらをしないで済むと考えるだろうからね」。そう言って、大佐の顔に笑みが広がりました。
「ボック」と彼はついに結論を出しました。「結局のところ、君はなかなかいいことを言ったと思うよ! よく考えてみよう。私のこの病気がどうなるか様子を見よう。わかるだろうが、この先どこまでやれるか自信がないんだ。まったく自信がない、まったくね。この前の南米旅行は少し無理が過ぎた。やるべきではなかったんだ。今ならわかる。まあ、今言ったように、二人とも徹底的によく考えてみよう。私も喜んで、じっくり考えるよ。君の言うことには大いに理がある。大きな機会だ。ぜひやりたい。いやはや! 君の言うように、本物のアメリカ精神のために100万人の少年を結集できたら、すばらしいだろう。考えれば考えるほど、大きな話に思えてくる。1か月か2か月、じっくり温めてみようじゃないか」
こうして話はそのままになりました。「1か月か2か月」のつもりで。しかし不幸にも、それは永遠のものになってしまったのです。エドワード・ボックはずっと、自分がこれまでに思いついたなかで最も価値のある考えが、どうしてもわからない何かの理由で、遅すぎたのだと感じてきました。そして今も、これからもずっと感じるでしょう。アメリカの少年たちは、彼らを導いてくれたかもしれない国の指導者を失ったのだと。その指導者がいれば、どこまで行けたことでしょう。
