ボック『エドワード・ボックのアメリカ化』全訳(36)30年の編集者生活の終わり
この記事は、雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」を30年間率いた編集者エドワード・ボック(1863〜1930年)が1920年に出版した自伝『The Americanization of Edward Bok』(翌年ピュリッツァー賞を受賞)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。原文では著者自身を三人称の「エドワード・ボック」と書いており、訳文もそれに従っています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。
連載の構成(全39回)
- アメリカでの最初の日々
- 初めての仕事:週給50セント
- 独学への渇望
- 大統領との交友とボストン巡礼
- ロングフェローと劇場へ
- フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧
- ウォール街に飛び込む
- 新聞配信の事業を始める
- ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり
- 初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ
- 成功のチャンス
- 砲火の洗礼
- 出版の出来事と逸話
- ニューヨーク最後の年
- 編集者として成功する
- 女性誌の編集者としての最初の数年
- ユージン・フィールドのいたずら
- 雑誌を育てる
- 人柄が伝わる手紙
- いくつかの挫折
- 建設的な仕事の見本
- 街と個人の芸術への挑戦
- セオドア・ルーズベルトの影響
- ルーズベルトの匿名の論説
- 大統領と少年
- 文学の裏階段
- 女性クラブと女性参政権
- キプリングとの帰郷と講演旅行
- 女性の本質への小旅行
- 売薬などの悪弊を一掃する
- 市民生活への取り組み
- 戸惑うボック
- 何百万人に届く方法
- 戦時の雑誌と戦時の活動
- 大戦の前線で
- 30年の編集者生活の終わり(この記事)
- 第三の時期
- アメリカが私に足りなかったこと
- 私がアメリカに負っているもの
絶頂のときに身を引くという決断
帰国の船旅のあいだに、エドワード・ボックは、戦争が終わったいま、「レディース・ホーム・ジャーナル」の編集長の職を解いてもらうよう会社に願い出ようと決めました。もともとの計画では、編集長を四半世紀務めたところで、50歳の年に引退するつもりでした。つまり、予定より6年遅れていたのです。1919年10月には編集長として30周年を迎えることになっており、ボックは、職務を退くのにふさわしい時期としてこれを選びました。
ボックは、カーティス夫人から雑誌の編集を引き継いだときの条件を自分は果たし、それを実らせたのであって、これ以上自分が雑誌を続けても、それは付け足しのようなものにしかならないと感じていました。また、アメリカの女性に奉仕する全国的な存在をつくる手助けをしたいという願いもかなえており、この仕事での自分の役割は終わったと感じていました。
世間がこれほど彼の個性と深く結びつけて考えている存在を、どの時点で手放すべきか、ボックは慎重に考えました。そして、この雑誌の歴史のなかで、いまほど安心してほかの人の手に渡せる時期はないと感じました。世間での雑誌の評価は揺るぎないもので、これほど強かったことはかつてありませんでした。発行部数はほかのどの月刊誌をもしのいでいたばかりか、いまも急速に伸び続けていて、月200万部という、ほとんど信じられないような数字に届くのも、あと数か月の問題でした。広告の出稿もほかのどの月刊誌を上回っており、この雑誌はおそらく、世界で最も価値があり、最も利益を上げる雑誌という財産になっていました。
編集長の交代にとって、あらゆる条件がこれほどそろって好都合になる時期は、二度と来ないかもしれません。雑誌の地位はすっかり確かなものになっていたので、1人の編集長が退き、別の人が就いたところで、その歩みが揺らぐことはまずありませんでした。有能な編集スタッフがいて、それぞれ10年から30年にわたって雑誌に携わってきていました。このスタッフは、雑誌の成功のとても大きな要因でした。ボックが主導権をとり、指揮する力を与えてきたとはいえ、雑誌の編集上の成功の大部分はスタッフのおかげでした。彼らなら、ボックの指導がなくても雑誌を続けていけるはずでした。
そのうえボックは、読者が何かの理由で彼に別れを告げると決めてしまう前に、自分のほうから読者に別れを告げたいと思っていました。歓迎されているうちに引き上げたかったのです。読者は、彼の至らないところに驚くほど寛大で、彼の誤りにも大目に見てくれ、彼が最善の努力をするよう大いに励ましてくれました。その読者に多くを求めすぎたくはありませんでした。30年というのは長い在任期間で、途切れずに現役で編集を続けた期間としては、アメリカの雑誌の歴史のなかでも最も長いもののひとつでした。
ボックは、きわだった特色を持つ雑誌をつくり上げ、それをアメリカの家庭の暮らしのなかに根づかせる手助けをしてきました。この雑誌は創刊のときからほかのどの雑誌とも違っていて、ほかの雑誌とは一線を画す独自の個性をずっと保ってきました。単に小説や記事を寄せ集めたもの以上の存在であろうとしてきました。一貫して理想を掲げ、1つか2つの例外を除けば、成し遂げようとしたことはやり遂げてきました。立派な成果の記録があり、それは多くの人が思っている以上に実り多いものでした。それまでのどの雑誌もなりえなかったような、全国的な存在になっていました。読者からも企業からも、アメリカの知的な家庭に届くための定評ある道筋として、誰もが認めるものになっていたのです。
エドワード・ボックは、この時点で雑誌を離れることに満足していました。
1918年12月、ボックはこうしたことをすべて取締役会に説明し、辞任を検討してほしいと願い出ました。30年の任期を全うすること、つまりさらに1年近く雑誌にとどまることが了承されました。
最後の仕事となった「アメリカ化」の連載
「ジャーナル」はこのころから、誌面に載せる記事のなかで、戦後の再建期に女性たちが直面するであろう問題への道筋を示しはじめました。ボックは、かなり込み合っていた言論の分野を丹念に見渡し、目前に迫った問題に向き合い、解決していくために世間が理解しておくべきだと彼が考えた、とりわけ重要な問いを選んで誌面で取り上げました。この国の男性と女性がすぐに直面することになる最も大きな問題として彼が見てとったのは、「アメリカ化」の問題でした。戦争とその後の影響によって、これが国の暮らしのなかで最も切実に必要とされていることがはっきり示されたのです。それは外国生まれの人々にとってだけでなく、アメリカ生まれの人々にとっても同じでした。
この問題を調べれば調べるほど、はっきりしてきたことがあります。アメリカ生まれの人々の大多数も、外国生まれの人々と同じように、アメリカの理想をあらためて見つめ直すこと、そして多くの場合には新たにとらえ直すことを必要としている、ということです。そして、アメリカ生まれの男女の頭のなかでそれがもっとはっきり定まらないかぎり、外国生まれの人々に、アメリカとその制度が何を意味しているかを教えることは決してできない、ということでした。
ボックはワシントンに行き、内務長官フランクリン・K・レーンに相談しました。政府のアメリカ化局は、この内務省の一部だったのです。包括的な連載記事の構想が練られました。書き手には、アメリカ化の仕事で数年の実地経験を持つ、最も練達した筆者エスター・エヴェレット・レイプが選ばれました。レーン長官は、自ら原稿を読んで承認し、掲載の責任を引き受けることに同意しました。
連邦アメリカ化局の全面的かつ直接の協力のもとに資料が集められ、まとめ上げられました。その結果、連邦アメリカ化局の局長の見るところでは、この連載は、都市・町・村のそれぞれに合わせた実践的なアメリカ化について、それまでに発表されたなかで最も包括的な解説となりました。
この連載の仕事は、エドワード・ボックが編集長として行った最後の仕事のひとつでした。そして、自分の編集の仕事が、ほかならぬ自分自身がその産物であるアメリカ化の解説で締めくくられることを、ボックはことのほかうれしく思いました。外国に生まれ、アメリカ人になった編集者の経歴の締めくくりとして、ふさわしいものに思えたのです。
このとき掲載された再建期についての記事の幅広さと、テーマの選び方に表れた見通しの確かさは、雑誌の発行部数に新たな勢いを与えました。そして、政府による用紙使用の制限が解除されたいま、ふたたび必要な部数をすべて刷れるようになっていました。読者はすぐに応えてくれました。
その結果は驚異的な数字に達しました。ボックが全面的に編集を指揮した最後の号は、1919年10月号でした。この号は200万部を刷っても売り切れました。どの雑誌もそれまでに達成したことのない記録です。この同じ号は、世界のどの定期刊行物の単独の号もなしえなかった、もうひとつの記録も打ち立てました。表紙から裏表紙までのあいだに、100万ドルを超えるという驚くべき額の広告を載せていたのです。
心理的に見て、ここがまさにやめどきでした。そしてエドワード・ボックはやめました。編集長としての正式な立場は、彼の告別の論説を載せた号が出た1920年1月まで続きましたが、実際の編集長としての仕事は1919年9月22日に終わりました。その日、彼は後任者に手綱を渡したのです。
最後の訪問者
その日、ボックが最後に自分の机を離れようとしていたとき、「フランスで出会い、親切にしてもらった」という若い兵士が面会を待っていると告げられました。兵士が部屋に入ってきたとき、ボックにとって彼は、向こうで出会った大勢の若者のうちの1人にすぎませんでした。けれども、若者が握手をしながら「僕のことは覚えていらっしゃらないでしょうね、ボックさん」と言ったとき、ボックは見つめ返したその目のなかに、はっとさせる何かを感じました。そして、その目を最後に見たときの状況が、一瞬のうちによみがえってきました。
「なんということだ、君は、あの小さな小屋にいた2人のうちの1人じゃないのか。私が――」
「あの晩、『過ぎゆく魂』の詩を読んでくださった2人です。ええ、僕はあなたの左手を握っていたほうです。僕の相棒のベンは、あの晩のうちに西へ旅立ちました。覚えていらっしゃいますよね」
「ああ」と編集長は答えました。「覚えているとも。忘れようにも忘れられない」。そしてボックはふたたび、自分の手のなかの手がゆるみ、落ちていくのを感じ、「救い主よ――わたしを――道で――迎えたまえ」という言葉を聞きました。
若者の声で、ボックは我に返りました。
「覚えていてくださったなんて、すごいです。僕の顔は包帯でぐるぐる巻きでしたから、目のほかは何も見えなかったと思うんですが」
「目だけだった。そのとおりだ」とボックは言いました。「でも、その目がしっかり焼きついていたんだよ、君」
「おっしゃる意味がよくわからないんですが」と若者は言いました。
「そうだろうね」とボックは答えました。「わからないだろう。もっと年をとるまではね。それより教えてくれ、いったいどうやって助かったんだい?」
「ええと」と若者は、実際に戦った若者たちに私たちがみな見てきた、あのはにかみを見せながら答えました。「本当に危ないところだったと思います。でも、あなたが僕たちのところを出て行ったちょうどそのとき、後方へ向かう衛生隊がたまたま通りかかったんです。それでネルソンさんが――看護婦さんです、覚えていらっしゃいますか?――僕を一緒に連れて行ってくれるよう頼んでくれました。すばらしい病院に運ばれて、手厚い看護を受けて、何週間かしてアメリカに送り返されて、それからずっとこちらの病院にいました。いまは、お気づきのとおり声がこもるのを別にすれば――先生はじきによくなると言っています――すっかり元気です。政府が仕事を世話してくれて、州の北のほうにいる両親に会うために休暇をとってこっちへ来たんですが、結局僕は西へ旅立たなかったってことを、あなたに知っておいてほしいと思ったんです」
15分後、エドワード・ボックは、最後に編集長室をあとにしました。
けれども家に帰る道すがら、彼が思っていたのは、オフィスでの最後の日のことでも、編集長としての最後の仕事のことでもありませんでした。最後の訪問者のこと、つまり、間違いなく「西へ」旅立とうとしているように見えたまま別れてきた、あの若い兵士のことでした。1年前のあの恐ろしい夜に、その目は彼の記憶に焼きついていたのです!
よりによってこの若者が最後の訪問者になるとは、不思議なことでした!
ジョン・ドリンクウォーターが戯曲のなかでエイブラハム・リンカーンにグラント将軍に向かって言わせているとおりです。
「奇妙な世の中だ!」
