ボック『エドワード・ボックのアメリカ化』全訳(34)戦時の雑誌と戦時の活動

この記事は、雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」を30年間率いた編集者エドワード・ボック(1863〜1930年)が1920年に出版した自伝『The Americanization of Edward Bok』(翌年ピュリッツァー賞を受賞)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。原文では著者自身を三人称の「エドワード・ボック」と書いており、訳文もそれに従っています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全39回)

  1. アメリカでの最初の日々
  2. 初めての仕事:週給50セント
  3. 独学への渇望
  4. 大統領との交友とボストン巡礼
  5. ロングフェローと劇場へ
  6. フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧
  7. ウォール街に飛び込む
  8. 新聞配信の事業を始める
  9. ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり
  10. 初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ
  11. 成功のチャンス
  12. 砲火の洗礼
  13. 出版の出来事と逸話
  14. ニューヨーク最後の年
  15. 編集者として成功する
  16. 女性誌の編集者としての最初の数年
  17. ユージン・フィールドのいたずら
  18. 雑誌を育てる
  19. 人柄が伝わる手紙
  20. いくつかの挫折
  21. 建設的な仕事の見本
  22. 街と個人の芸術への挑戦
  23. セオドア・ルーズベルトの影響
  24. ルーズベルトの匿名の論説
  25. 大統領と少年
  26. 文学の裏階段
  27. 女性クラブと女性参政権
  28. キプリングとの帰郷と講演旅行
  29. 女性の本質への小旅行
  30. 売薬などの悪弊を一掃する
  31. 市民生活への取り組み
  32. 戸惑うボック
  33. 何百万人に届く方法
  34. 戦時の雑誌と戦時の活動(この記事)
  35. 大戦の前線で
  36. 30年の編集者生活の終わり
  37. 第三の時期
  38. アメリカが私に足りなかったこと
  39. 私がアメリカに負っているもの

前線ではなく「銃後」を扱うという方針

1917年のはじめ、アメリカ合衆国が大戦(第一次世界大戦)に加わることがはっきり見えてくるような形で事態が動き出したとき、エドワード・ボックは「レディース・ホーム・ジャーナル」の編集方針を固めることにしました。自分がほとんど乗り越えようのない難しい立場にいることは、よくわかっていました。発行部数があまりに多いため、発売のまる6週間前には印刷に回さなければならず、原稿の準備はさらにその4週間前に済ませておく必要があったのです。つまり、読者が雑誌を手にする日から見て、10週間より手前までしか近づけないということです。そして戦時には、事態が目まぐるしく動くものだということもわかっていました。

1月の末、ボックはワシントンに行き、今後の見通しを誰よりも的確に示してくれる立場の人たちに相談しました。そして、うすうす感じていたとおり、アメリカの参戦は事実上確実で、あとは時間の問題にすぎないことを知りました。

ボックは、これからの激務に備えて南部で1か月の休暇をとり、馬に乗ったりゴルフをしたりしながら方針を練りました。新聞や週刊誌は数えきれないほどの特派員を前線に送るでしょうし、ずっと前もって印刷に回さなければならない「ジャーナル」が、それと張り合えないことは明らかでした。彼らは戦場でのあらゆる動きを伝えるはずです。となれば、筋の通ったやり方はひとつしかありません。「前線」はまったく取り上げず、軍に同行して雑誌のために書きたいという男女の特派員からの申し出はすべて断り、そのかわりに、戦争が残された女性たちにどんな影響を及ぼすかを、実際に役立つ形で余すところなく取り上げることです。ボックは、それがどういうものになるか、女性の活動がとくにどんな方面に向かいそうかを丹念に検討し、それから家に戻って、ふたたびワシントンへ向かいました。

もう3月になっていました。ボックは大統領と会談し、懸念していたとおりであることを確かめ、自分の雑誌のあらゆる力を政府に提供すると申し出ました。状況についての彼の見立ては、相談した当局者たちによって細部に至るまで裏づけられました。「レディース・ホーム・ジャーナル」がいちばん役に立てるのは、国内の士気を保ち、女性たちが直面することになる問題に対処する手助けをすることだ、というのです。大統領の言葉を借りれば、「第二の防衛線で力を貸してほしい」ということでした。

その1年前、ボックはワシントンに別の編集部を開き、「ニューヨーク・サン」紙のワシントン特派員だったダドリー・ハーモンを責任者として迎えていました。その目的は、国じゅうの女性に自分たちの政府のことをもっとよく理解してもらい、政府とのつながりを深めてもらうことでした。この取り組みはたいへんうまくいき、事務所を4つ構え、速記者を20人抱えるまでになっていました。ボックはこのワシントン事務所を戦時体制に切り替え、戦争関連の活動にかかわる政府のすべての省庁と密接に連携させました。こうして彼は、現地に編集者と組織立ったスタッフを置き、戦争関連の記事の準備に全力を注がせることができました。ハーモン氏は毎日、各省庁の長と打ち合わせをして、最新の動きをつかんでいました。

政府の戦時機関の「代弁者」となった雑誌

ボックは、国が最初に取りかかるのは海軍の兵員募集で、この部門の備えを整えることだと知りました。そこで海軍次官のフランクリン・D・ルーズベルトに頼んで、息子を海軍に志願させるべき理由と、それが母親たちにとって何を意味するのかを説明する記事を書いてもらいました。

また、アメリカ赤十字社の本部と話をつけて、赤十字が最初にとる手立てと、女性たちがどう手を貸せるかを伝える公式のコーナーを、すぐに誌面で始めることにしました。このコーナーの編集者には、赤十字中央委員会の委員長を務めていた前大統領ウィリアム・ハワード・タフトを迎えました。

さらにノースクリフ子爵とイアン・ヘイに電報を打ち、開戦時にイギリスの女性たちが何をしたか、どんな失敗をしたか、アメリカの女性が避けるべき誤りは何か、イギリスの女性たちがうまくいったやり方は何か、そしてアメリカの女性たちがそれを大西洋のこちら側の事情にどう合わせればよいか、といったことを示す記事を依頼しました。

こうして、大統領の宣戦からわずか3週間後の4月20日に「ジャーナル」の最初の戦時号が出たとき、戦争が起きていることを誌面で取り上げていた月刊誌はこれだけで、しかもその誌面は、女性たちが手を貸せる具体的な方向をすでに示しはじめていました。

大統領はYMCA(キリスト教青年会)を戦時奉仕の団体として活用する計画を立てていました。ボックはすぐに、国際YMCA委員会の総主事ジョン・R・モットを編集者として、毎月1ページを載せる手はずを整えました。

ボックは、食糧の問題がきわめて重要になると聞かされていました。ハーバート・フーヴァーが海外での仕事を片づけしだいアメリカに戻るよう要請されていることも知っていました。そこでイギリス駐在の代理人に電報を打ち、食糧庁長官に就く予定のフーヴァーが、この雑誌のことと、計画中の食糧庁の仕事を進めるうえでこの雑誌が持つ可能性とを、直接知ることができるように手配させました。

食糧庁が組織されるやいなや、ボックはその計画や要望を伝える権威あるコーナーを誌面で設ける手はずを整えました。食糧庁長官としてフーヴァーがアメリカの女性に向けて初めて公に発表した声明は、「レディース・ホーム・ジャーナル」に掲載されました。ボックはさらに、雑誌の4色刷りの印刷設備をすべてフーヴァー氏の自由に使えるようにしました。そして食糧庁の家政の専門家たちが雑誌の料理スタッフ全員と組んで、戦時の新しい料理を考案し、フーヴァー氏と食糧庁が直接推奨するものとして、それをフルカラーでおいしそうに紹介しました。フーヴァー氏の部局だけで、毎月6本から16本の記事が届くようになりました。

農務省にも協力を仰ぎ、戦時菜園(war-garden)をつくって土から食糧を育てるための最良のアイデアを出してもらいました。

アンナ・ハワード・ショウ博士が国防会議女性委員会の全国委員会委員長に任命されると、ボックはすぐに彼女と話をつけ、委員会の計画と、アメリカの女性たちがそれにどう協力できるかを伝えるコーナーを誌面で編集してもらうことにしました。

こうしてこの雑誌は、政府のさまざまな戦時部局や戦時奉仕団体すべての、事実上の半公式の代弁者となりました。コロンブス騎士会の最高騎士ジェームズ・A・フラハティはこの団体が予定している活動を説明し、救世軍のエヴァンジェリン・ブース司令官は救世軍の計画を紹介し、YWCA(キリスト教女子青年会)全国委員会の会長ロバート・E・スピア夫人は自分の組織の活動を伝えました。大統領の娘マーガレット・ウィルソン嬢は、すべての校舎を地域の戦時活動の拠点として開放するための取り組みについて語りました。

雑誌はアメリカ国内の訓練キャンプでの若い兵士たちの暮らしや活動をフルカラーの写真で伝え、合衆国陸軍軍医総監ウィリアム・C・ゴーガスが、兵士たちの健康について誌上で語る役を担いました。

財務長官マカドゥーは、第1回自由公債(リバティ・ローン)の「募集運動」を女性たちにわかりやすく説明しました。合衆国大統領は、女性に向けた特別のメッセージで、その次の公債への協力を呼びかけました。戦時産業局の局長バーナード・バルークは、戦時の倹約が必要な理由を明らかにしました。ドイツから召還された駐独大使ジェームズ・W・ジェラードは、ドイツの女性たちが工夫をこらして取り入れた方法のうち、アメリカの女性が取り入れて役立てられるものを紹介しました。そしてベルギー王妃エリザベートは、ベルギーの赤ん坊や子どもたちの窮状を説明し、読者の女性たちに助けを求めました。王妃の文章があまりに率直で、訴えがあまりに見事だったので、6か月のうちに「レディース・ホーム・ジャーナル」を通じて、練乳24万8,000缶、ポーク・アンド・ビーンズ7万2,000缶、乳児用調製食品5,000缶、ビーフスープ8万缶、それに小麦4,000ブッシェル近くが王妃のもとへ送られました。いずれも雑誌の読者から寄せられたお金で買ったものです。

石炭の問題が持ち上がると、雑誌はすぐに燃料庁の調査結果と勧告を誌面に反映させました。燃料庁長官H・A・ガーフィールド博士は、局の資料を雑誌のワシントン担当編集者が自由に使えるようにしてくれました。

やがて広報委員会(Committee on Public Information)も、女性に向けてさまざまな事柄を説明する一連の公式発表をこの雑誌を通じて出したいと求めてきました。

「肉なしの日」や「小麦なしの日」が始まったとき、アメリカの女性たちは、雑誌がすでにそれを見越していたことに気づきました。食糧庁が公に発表したその最初の日に出た号には、代用食を紹介するページがフルカラーで並んでいたのです。

雑誌の戦時の仕事の評価

もちろん、戦争をめぐるさまざまな記事は数えきれないほど載せました。戦争が終わる前には、雑誌もキャサリン・ヴァン・ダイクを前線に派遣し、彼女は一般的な内容の記事で雑誌のためにたいへん効果的な仕事をしました。実際に戦闘に加わった人たちから得た資料をもとに描いた全ページの戦闘画は、どこでも称賛され、刷れるかぎり最大の部数でも売り切れました。いつも驚かされたのは、フランスにいる兵士たちのあいだで見つかるこの雑誌の多さでした。陸軍省の公式の一覧で、兵士たちがいちばん欲しがるアメリカの定期刊行物の第3位になったほどで、どうやらこの雑誌が兵士と故郷の家族とを結ぶ絆になっていたようです。けれども、こうした「戦争」ものの企画は、喜ばれ、望まれてはいたものの、結局は、雑誌のより実際的な、暮らしにかかわる仕事の添え物にすぎませんでした。この雑誌が抜きん出ていたのはその方面での貢献であり、だからこそ家に残った女性たちはこぞってこの雑誌を買い求め、けた外れの需要に見合うだけの部数を毎月そろえることは不可能だったのです。

原稿を前もって準備しなければならないことから生じる困難を乗り越えなければならなかったこと、そして最高の当局者から得た先の情報でさえ、せいぜい推測の域を出なかったことを考えれば、大戦中の女性のあらゆる活動を「レディース・ホーム・ジャーナル」が網羅的に取り上げたことは、この雑誌の最もめざましい業績のひとつとして、いつまでも残るでしょう。ここでそう言い切ってもかまわないのは、その功績が誰かひとりのものではないからです。それはスタッフ全員が力を合わせ、慎重に積み重ねた仕事でした。一歩ごとによく考えてから踏み出し、状況が許すかぎり先をはっきり見通そうとし、常に最も権威ある情報源を求めたのです。

ボックは指揮をとっただけでした。毎月、雑誌を印刷に回す前に、最高の立場にある3人のうち少なくとも1人に助言と見通しを求めました。明日何が起こるかを誰も本当には予見できない戦時において、これ以上ないほど権威あるその助言に従って、ボックは行動したのです。いま振り返ってみると、その結果は実に驚くべきものでした。発売日には、記事が気味が悪いほど時宜にかなっていることがよくありました。もちろん、その多くは、政府が惜しみなく、また骨身を惜しまず協力してくれたおかげでした。

ベルギー救援とYMCAの募金運動

ワシントンにさまざまな戦時の委員会ができると、ボックのもとには、それらの仕事に専念して首都に移ってきてほしいという打診が届きました。彼は最良の助言を求め、自分の直感も同じ方向を指していたので、編集者の地位にとどまり、余暇の許すかぎりの活動をそれに加えることが、最もよく国に尽くす道だと決めました。ボックは合衆国政府のために非公式の任務をいくつか引き受け、その後、フィラデルフィア・ベルギー救援委員会の副会長に選ばれました。

委員会の会長は在米ベルギー総領事のポール・アーヘマンス氏でした。ボックは、ベルギーの人々をよく知る同氏の助言に従って、自分が扱うことになる食料品の分野ごとに、最も腕の立つ仕入れ担当者や商人を集めて委員会をつくりました。委員会は何十万ドルもの資金を集め、それで食料を買い、船をチャーターしました。食料の量はとてつもない数字になり、ボックは世界じゅうを養っているような気がしたほどです。それでも、船倉が何千箱もの缶詰や、エンドウ豆やインゲン豆の袋、果てしない数の練乳の缶を積み込みはじめると、埠頭に山積みになっていた箱はみるみる消えてゆき、船倉はまだ足りないとばかりに口を開けているのでした。小麦粉は、何百樽と、果てしなく続くかと思うほど送られました。

品目ごとに、委員会のなかの専門家が大量仕入れの最安値で買い付けました。その結果、フィラデルフィア港から次々と出てゆく船は、この市と州の人々の気前のよさを示すものとなりました。委員会はメンバーの1人をベルギーに派遣し、食料が困っているベルギーの人々のもとに本当に届いていることを自分の目で確かめさせました。

1917年9月、ジョン・R・モットから知らせが届きました。ボックがYMCA戦時奉仕評議会のペンシルベニア州委員長に任命されたこと、6週間後に2,500万ドルを目標とする全国的な運動が始まること、そしてペンシルベニア州の割り当ては300万ドルであることが伝えられました。ボックは州全体に組織をつくり、フィラデルフィアから募金運動を指揮し、州内の各地で演説をして、割り当て額を集めなければなりませんでした。ボックはYMCAの活動についてほとんど何も知りませんでした。そこでニューヨークの本部に出向き、行われている活動と計画中の活動をよく頭に入れてから、州の体制づくりに取りかかりました。募金運動は予定どおりに行われ、ペンシルベニア州は割り当ての倍、つまり300万ドルではなく600万ドルの申し込みを集めました。そのうち実際に集金できたのは582万9,000ドルで、ほぼ100パーセントでした。

ボックは続いてニューヨークにあるYMCA全国戦時奉仕評議会のメンバーになり、合衆国大統領からこの組織に託された途方もない仕事のために、必要な体制をつくる作業に加わるよう求められました。それはヘラクレスの難業にも等しい仕事で、立ちはだかるほとんど克服しがたい障害を考えれば、高い効率で進めることは事実上不可能でした。それでも一歩ずつ、不完全ながらも体制が整えられ、国内の訓練キャンプで動き出しました。やがてフランスへ向かう最初の部隊とともに海外での活動が始まると、困難は百倍にもふくれ上がりました。

けれどもボックは、ワシントンの政府各省や戦時の委員会、ほかの戦時奉仕団体の内情を知っていたので、ほとんど一夜にして組織をつくるよう求められ、その重荷によろめき、うまく機能するのと同じくらいしばしばつまずいている団体は、YMCAだけではないことをすぐに確信しました。

人材の質にこだわったフィラデルフィアの募集委員会

海外や国内の訓練キャンプで働くYMCAの主事(secretary)が足りないことはやがて深刻な問題となり、ボックはフィラデルフィア募集委員会の委員長に任命されました。ベルギー救援のときと同じように、彼はすぐに有能な委員をまわりに集めました。今回は、人間というものを大きな目で見る訓練を積み、市内に広い人脈を持つ実業家や専門職の人たちで構成しました。同時にボックは、ニューヨークのYMCAで最も有能な人物のひとりであるエドワード・S・ウィルキンソンを譲り受け、彼がフィラデルフィア委員会の常任の主事になりました。ボックはさらに、運転手と整備士を募集するための自動車メーカーによる委員会を別につくり、体育指導者を募集する委員会もつくり、のちには女性を募集する第3の委員会もつくりました。

選べる人材の範囲がかぎられていたので、この仕事は難しいものでした。兵役年齢の男性は採用できません。ワシントンの戦時の委員会が、市内の優れた人材をすでに大勢引き抜いていました。YMCAの仕事は風雨にさらされ、緊張を強いられるため、少しでも身体に欠陥があれば採用されません。残る人材は多くありませんでした。

これまでに、あれほど多くの力不足の主事が審査を通ってフランスに送られていたのも、無理もないことでした。選べる範囲がこれほどかぎられていては、ほかにどうしようもなかったでしょう。それでもフィラデルフィア委員会は、自分たちが送る人材は最良の者でなければならないと心に決めていました。そして、凡庸な者を200人送るより、実力に疑いのない者を100人集めるほうが大きな仕事になる、と判断しました。委員会は、仕事や家庭という錨から引き離すことさえできれば、フィラデルフィアとその周辺にはまだ十分に優れた人材がいると考えていました。不可能な仕事なのではなく、むしろ絶え間なく働き続けられるかどうかの問題だと考えたのです。

ボックはフィラデルフィアの新聞に大きな広告を出し、YMCAの仕事でフランスに行ってくれる、とりわけ人格の優れた男性を求めました。委員会のメンバーは、さまざまな経済団体の昼食会で話をしました。やがて応募者が来るようになり、委員会は目の肥えた選考を始めました。応募者はそれぞれ、週2回開かれる委員会の面接に臨む前に、主事から念入りに質問を受けました。そのため、2,500人を超える応募者のうち委員会の面接まで進んだのは300人だけで、そのうち258人が合格して海外に送られました。

委員会の仕事はきわだって成功しました。まもなくその質の高さが知られ、パリの本部から「フィラデルフィアのような人材をもっと送ってほしい」という電報が届くほどでした。その秘訣は、委員会そのものの顔ぶれが立派だったことと、求められる基準をどう解釈するかにありました。仕組みがあまりにうまく働いていたので、ボックが前線に向けて出発し、10週間フィラデルフィアを留守にしたあいだも、ペンシルベニア鉄道のトーマス・W・ヒュームが委員長代理を務めた委員会は、最良の仕事のいくつかをやってのけました。

ニューヨーク本部の報告によれば、あとになってみると、フィラデルフィア委員会の仕事に並ぶYMCAの募集委員会はありませんでした。送り出した人材が、実際の働きぶりにおいて、100パーセント合格点の主事だったと証明されたのです。合格した258人全員のうち、2人を除く全員が100パーセントの成績を持ち帰りました。なかには海外で最も重要な持ち場につき、最も困難な任務を果たした人もいました。フィラデルフィアのほかの委員会、とりわけ女性委員会の仕事も、同じように優れたものでした。

戦時共同募金とボーイスカウトの活躍

次々と行われる「募金運動」が、それに携わる人たちの力を急速にすり減らしつつあったので、その多さをなくすために、フィラデルフィアとその周辺では、すべての戦時奉仕団体のためにまとめて資金を集める戦時共同募金委員会(War Chest Committee)がつくられました。ボックは執行委員会のメンバーとなり、広報委員会の委員長を務めました。1918年5月、2,000万ドルを目標とする運動が始まりました。目標額の申し込みが集まり、申し込みは12か月の月賦払いだったため、多くは休戦のあとで集金しなければなりませんでしたが、それでも合計1,550万ドルが払い込まれ、各団体に引き渡されました。

ボックは地元のメリオン地区でボーイスカウトの指導委員(commissioner)の1人に任命されており、自由公債などの運動でボーイスカウトが力を発揮できる可能性に気づいていました。ほかの指導委員やメリオン隊の隊長と協力しながら、ボックは運動が来るたびに少年たちの活動を支えました。隊にいたのは12歳から14歳までのわずか9人の少年で、ボックの下の息子もその1人でしたが、隊長トーマス・ダン・ベルフィールドに励まされて少年たちがあまりに見事に働いたので、まもなく広く注目を集め、フィラデルフィア近辺で最も有能な隊のひとつとして名を知られるようになりました。少年たちは地域で出された賞をほとんどすべて獲得し、財務長官からも特別に称賛されました。

たいていの運動で、少年たちは「落ち穂拾い」にすぎませんでした。つまり、正規の委員会が近所をくまなく回ったあとの最後の3日間だけ活動したのです。それでもこのメリオンのボーイスカウトは、140万ドルを超える自由公債を売り、YMCAの運動では、フランスにいる兵士のために最大級の休憩所(ハット)を1棟建て、さらにリーグ・アイランド海軍工廠に、2,000人の水兵が使えるYMCAの体育館を建てられるだけの資金を集めました。

1918年の夏、赤十字を除く主要な8つの戦時奉仕団体が、資金集めの運動を1本化するために「連合戦時奉仕運動(United War Work Campaign)」としてまとまり、ボックはそのペンシルベニア州委員長になりました。11月に全国的な運動が始まり、ペンシルベニア州の割り当ては2,000万ドルでした。この州がそれまでに求められたなかで最大の額です。ボックはペンシルベニア州を代表する人々で委員会をつくり、この巨額を集めるための体制づくりに取りかかりました。ところが、それを終えるやいなや、彼はフランスへ渡らなければならず、戻ったのは運動が始まるわずか1か月前でした。

それでも有能な委員会がしっかり仕事をしていて、帰国したボックが見たのは、すっかり整った組織でした。運動の初日には、休戦協定が結ばれたという誤報が流れ、これほどの大金を集めるのはほとんど望みがないように思われました。そのうえ、州じゅうでインフルエンザが猛威をふるっていたため、公の集会はいっさい許されず、開かれることもありませんでした。それでも、こうした障害にもかかわらず、2,000万ドルの申し込みが集まったばかりか、100万ドル近くも上回りました。しかも、この莫大な総額の1セント残らずを休戦協定の調印後に集金しなければならなかったにもかかわらず、2,000万ドルが払い込まれ、戦時奉仕団体に引き渡されたのです。

ペンシルベニア州の人々が戦時に行ったことのなかで、この驚くべき愛国的な気前のよさの証ほど、彼らの名誉を高めるものがほかにあるかどうかは、まったく疑問です。戦争が続き、砲声が響いているあいだにこれほどの巨額を申し込むのも、ひとつの愛国心の形です。けれども、戦争が終わったあとでそれだけの額を申し込み、しかも払い込むのは、まったく別の、もっと高い愛国心なのです!

戦時奉仕団体の働きをどう見るか

連合戦時奉仕運動の州委員長という立場上、ボックは、基金に加わっている8つの団体それぞれの活動を、責任ある立場から詳しく追う必要がありました。自分が集めるのに一役買ったお金を、コロンブス騎士会や救世軍、YWCA、その他の団体が何に使っているのかを知らなければならないと感じていましたし、委員長としてペンシルベニア州の人々に対して責任を負っていると感じていたからです。そのため、YMCAの活動を知っていたのと同じくらい、これらの団体の活動も徹底して知るようになりました。

ボックはこのころまでに、YMCAの活動を、フィラデルフィアという足場から、そしてニューヨーク本部との公式のつながりを通じて、直接見聞きしていました。ロンドンとパリの本部で行われている活動も見ていました。そして、アメリカの訓練キャンプ、イギリスの休養キャンプ、フランス軍の戦線の後方、塹壕のなか、さらには許されるかぎり砲火の最前線の近くで、実際の活動を目にしていました。

要するに彼は、YMCAが動いている姿をあらゆる角度から見ていたのですが、同時に、イギリスやフランスで、戦線の後方や塹壕のなかで活動するほかの団体の仕事も見ていました。どの団体にも欠点がありましたが、それはやむをえないことでした。どの団体も、信じられないほど短い期間に、しかも逆境のなかで組織をつくろうとしていたからです。ボックはすぐに見てとりました。YMCAが仕事で「失敗している」という非難は、救世軍が「驚くべき仕事」をしているとか、コロンブス騎士会は「ほかが無能なところで有能」だとか、YWCAは「どこにも姿が見えない」といった評判と同じく、事実ではないということを。

救世軍が、ごくかぎられた範囲で見事な仕事をしていたことは疑いありません。使える人員がかぎられていたことを考えれば、それ以上の規模ではできなかったのです。コロンブス騎士会の仕事は、ほかの団体の仕事と比べて、少しも有能でも無能でもありませんでした。やったことはうまくやろうと努めていましたが、それはほかの団体も同じでした。YWCAがフランスでの活動についてほとんど何も言わなかったのは、戦争が終わる直前まで、合衆国政府が戦時奉仕団体の制服を着た女性を海外に送ることを許さなかったからです。けれども、アメリカの訓練キャンプで「ホステス・ハウス(面会所)」を運営したYWCAの有能な働きは、一瞬たりとも否定できません。その仕事だけでも、アメリカの人々から支援を受けるに値するものでした。YMCAの仕事はあまりに大規模だったので、当然ながら、その非効率も規模に比例して大きくなることが多かったのです。

YMCAへの批判の嵐が巻き起こったとき、ボックはフランスにいました。そしてペンシルベニア州委員長として、その非難の声がアメリカに届いたときには、それに向き合うのが彼の務めでした。YMCAの仕事に欠点があったことは誰にも否定できません。ボックは、世間がそれに気づくずっと前からその「穴」を見ていました。けれども、当時の困難な状況のなかでその穴をふさぐことが、ほとんど不可能な仕事であることも見ていたのです。フランスにいなかった人には、戦時奉仕団体がどれも、事実上乗り越えられない障害を相手に働いていたことが想像もつかないでしょう。そして当然ながら、仕事が大きければ大きいほど、障害も大きかったのです。YMCAやほかの同様の団体が間違いを犯したことは、驚くにはあたりません。むしろ、それ以上間違えなかったことのほうが驚きです。本当に驚くべきなのは、それだけ多くの有能な仕事をしたことです。私たちが細かな点から少し距離を置いて、これらの団体の仕事を大きな視野で見るようになり、手落ち――いら立たしく残念なものではあっても、結局は重大なものではなかった手落ち――を忘れたとき、その記録は全体として、きわめて際立ったボランティアの奉仕として残るでしょう。

実際に成し遂げられたことは、驚異としか言いようのないものでした。心に留めておくべきなのはこの事実、つまり、しなかったことではなく、したことなのです。そしてアメリカの人々がその見方をするようになれば――いずれそうなるでしょうし、実はもうそうなりはじめています――アメリカのYMCAの仕事は、手落ちのせいで非難されることはもうなくなり、その成果によって人々を驚かせ、喜ばせるでしょう。ショーモンの司令部で、ある高位のアメリカ軍将校がボックにこう言いました。「『Y』がなかったら戦争がどうなっていたか、想像もつきません」。やがてそれが、アメリカじゅうの共通の見方となるでしょう。そしてその評価は、それぞれの働きに応じて、すべての戦時奉仕団体と、その任務のなかで耐え、苦しみ、命を落とした男女たちにも及んでゆくはずです。


第33回:何百万人に届く方法

第35回:大戦の前線で