ボック『エドワード・ボックのアメリカ化』全訳(7)ウォール街に飛び込む

この記事は、雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」を30年間率いた編集者エドワード・ボック(1863〜1930年)が1920年に出版した自伝『The Americanization of Edward Bok』(翌年ピュリッツァー賞を受賞)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。原文では著者自身を三人称の「エドワード・ボック」と書いており、訳文もそれに従っています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全39回)

  1. アメリカでの最初の日々
  2. 初めての仕事:週給50セント
  3. 独学への渇望
  4. 大統領との交友とボストン巡礼
  5. ロングフェローと劇場へ
  6. フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧
  7. ウォール街に飛び込む(この記事)
  8. 新聞配信の事業を始める
  9. ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり
  10. 初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ
  11. 成功のチャンス
  12. 砲火の洗礼
  13. 出版の出来事と逸話
  14. ニューヨーク最後の年
  15. 編集者として成功する
  16. 女性誌の編集者としての最初の数年
  17. ユージン・フィールドのいたずら
  18. 雑誌を育てる
  19. 人柄が伝わる手紙
  20. いくつかの挫折
  21. 建設的な仕事の見本
  22. 街と個人の芸術への挑戦
  23. セオドア・ルーズベルトの影響
  24. ルーズベルトの匿名の論説
  25. 大統領と少年
  26. 文学の裏階段
  27. 女性クラブと女性参政権
  28. キプリングとの帰郷と講演旅行
  29. 女性の本質への小旅行
  30. 売薬などの悪弊を一掃する
  31. 市民生活への取り組み
  32. 戸惑うボック
  33. 何百万人に届く方法
  34. 戦時の雑誌と戦時の活動
  35. 大戦の前線で
  36. 30年の編集者生活の終わり
  37. 第三の時期
  38. アメリカが私に足りなかったこと
  39. 私がアメリカに負っているもの

第7章 ウォール街に飛び込む

エドワード・ボックが18歳のとき、父が亡くなりました。残されたわずかな保険金では、葬儀の費用をまかなうのがやっとだとわかりました。そこで二人の兄弟は、乏しい収入で母を養うという問題に直面しました。二人はただ一つの目標を定めました。母が育ち、かつて慣れ親しんでいたゆとりある暮らしに、もう一度戻してあげることです。けれども、二人の収入ではそれはできません。夜のあいだにも別の仕事を引き受けなければならないのは明らかでした。

「ブルックリン・イーグル」紙の市報部長は、エドワードに劇場関係のニュースの取材を任せていました。「近日上演の演目」や、そのほかニュースになりそうな演劇の話題を探ってくるのが彼の役目でした。ある月曜の夜、いくつもの出来事が重なって記者たちが手いっぱいになり、エドワードはグランド・オペラハウスの「取材」を命じられました。そこではローズ・コグランが、すでにブルックリンで上演されたことのある芝居に出演することになっていたので、特別な劇評は必要ありませんでした。それでも「イーグル」は記事にしたがっていました。ところがエドワードは、その晩、自分がより大事だと思う別の約束を入れていました。とはいえ編集者をがっかりさせたくもなかったので、取材の仕事を引き受けました。彼はコグラン嬢のその芝居をすでに見ていました。そこで別の約束のほうに出かけ、劇場には近づきもせずに、「コグラン嬢は前回のブルックリン公演のときよりも、むしろいっそう力強く役を演じた」といった趣旨の記事を書き、翌朝、出勤の途中で市報部長に手渡しました。

ところが運の悪いことに、コグラン嬢は幕が上がる直前に体調を崩し、代役もいなかったため、公演は行われず、観客は帰されていたのです。このことはすべて、ニューヨークの朝刊各紙がきちんと報じていました。エドワードはこのニュースをフェリーの上で読みましたが、彼の記事はすでに市報部長の手に渡っていました。

その晩、家に帰ると「イーグル」からの呼び出しが来ていました。翌朝、彼は叱責を受け、この新聞でのチャンスはもう終わりだと告げられました。けれども、しょげかえった少年がすぐに非を認め、明らかに後悔している様子に、編集者は心を動かされました。その週が終わる前に少年を呼び寄せ、教訓が身にしみたのなら、もう一度チャンスをやろうと約束してくれたのです。教訓は身にしみていました。そして、いつまでも消えない印象を残しました。初めての「でっちあげ」の試みが記者生活のごく早い時期に起こったおかげで、その経験を肝に銘じて糧にできたことを、エドワード・ボックはいつも心から感謝していました。

劇場プログラムという新事業

ある晩、エドワードは芝居を見に行って、幕あいに観客席の女性たちが手持ちぶさたにしているのに気づきました。当時は今以上に、幕あいになると男性たちが外に出てしまい、女性だけが残されるのが習慣でした。エドワードは手に持ったプログラムを見ました。11×9インチの大判の紙を折った4ページもので、印刷もひどく、配役とわずかな広告と、近日上演の演目の告知のほかは何も載っていません。少年は何気なくそのプログラムを折りたたみ、長いほうを縦にしてみました。そして、このくらいの小さなサイズで扱いやすく、表紙が魅力的で、読み物も少し載っているプログラムなら、商売になるのではないかと考えました。

家に帰ると、彼は8ページの「見本」をこしらえ、表紙に魅力的な絵を貼り、中に入れる内容を書き込みました。そして翌朝、それを劇場の支配人に見せました。当時のプログラムは劇場側にとってかなりの出費になっていました。エドワードは、独占権をもらえるなら新しいプログラムを無料で提供すると申し出て、支配人はすぐにこの申し出を受け入れました。それからエドワードは、出版と広告の経験が自分より豊富な友人、フレデリック・L・コルバーのところへ行き、共同で事業を始めました。最初のプログラムを出したとたんに、このアイデアはほかの劇場にもまねされるだろうと考えたエドワードは、すべての劇場の独占権を押さえにかかりました。二人の若い発行人は、朝夕の通勤の行き帰りに広告を集めて回り、ほどなく、今ではどの劇場でも使われている小型の劇場プログラムの第一号が世に出ました。この事業は最初からうまくいき、毎週かなりの利益をもたらしました。現金で取れなかった広告は、代わりに品物で受け取りました。そしてこの物々交換が、二人の発行人の家計を支えるのに大いに役立ったのです。

討論会と慈善コンサート

エドワードの共同経営者はこのころ、彼を「フィロマシアン協会」という討論会に紹介しました。ヘンリー・ウォード・ビーチャーが牧師を務めるプリマス教会に関わる若者たちでつくる会です。討論は小さな議会の形をとり、会員はそれぞれ一つの州を代表しました。エドワードがくじで引き当てたのがペンシルベニア州の代表だったのは、奇妙な偶然でした。会員たちはこの討論をとても真剣に受け止め、どんなに大きなテーマでも取り上げました。エドワードは協会の活動に夢中になり、ほどなく会長に選ばれました。

協会の収入は、会員の会費と、協会の主催で毎年プリマス教会で開くコンサートから得ていました。エドワードが会長のときにコンサートの時期がめぐってくると、彼は満員になるよう、この催しを特別なものにしようと決めました。ビーチャー氏に司会を引き受けてもらい、グラント将軍には来て話をするという約束を取りつけました。さらに、エマ・C・サーズビー、アニー・ルイーズ・ケアリー、クララ・ルイーズ・ケロッグ、エヴリン・ライオン・ヘゲマンという、当時の一流のコンサート歌手たちに無償で出演してもらいました。その結果、こんな顔ぶれに当然ながら引き寄せられた大勢の人を、教会は収容しきれませんでした。

雑誌づくりへ

さて、劇場プログラムを出している二人の若者は、協会の「機関誌」を出して出版事業を広げようと思い立ちました。こうして「フィロマシアン・レビュー」の創刊号が、コルバー氏を発行人、エドワード・ボックを編集者として、無事に世に出ました。エドワードはここで、編集者として自分の翼を試す機会を得たのです。この定期刊行物はもちろん、本来は協会の機関誌でした。けれども、ブルックリンのより広い地域に読者を広げられるよう、しだいに一般向けの性格を帯びていきました。読者が広がるにつれて内容もさらに幅を広げ、文芸誌の色合いを見せはじめました。ほどなく二人の発案者は、この雑誌が名前に収まりきらなくなったことに気づきました。そして1884年の終わりごろ、誌名を「ブルックリン・マガジン」に変えることに決めました。

当時、「プリマス・パルピット」という、ビーチャー氏の説教を一字一句そのまま載せる定期刊行物がありました。エドワードは、この「パルピット」を「マガジン」に吸収するというアイデアを思いつきました。けれども、それには彼と共同経営者が用意できる以上の資本が必要でした。二人がビーチャー氏に相談すると、二人の若者の意欲に惹かれたビーチャー氏は、特に影響力のある教区の信徒何人かに宛てた紹介状を持たせて送り出してくれました。その結果、二人はまもなく、A・A・ロウ、H・B・クラフリン、ルーファス・T・ブッシュ、ヘンリー・W・スローカム、セス・ロウ、ロシター・W・レイモンド、ホレイショ・C・キングといった、ブルックリンの有力者たちから十分な資金援助を得ることができました。

これで若い発行人たちは先へ進めるようになりました。ビーチャー氏の説教だけでは、雑誌が偏った宗派色を帯びてしまうかもしれないと考えたエドワードは、当時名声の絶頂にあったT・デ・ウィット・タルメージ牧師の説教も、一字一句そのまま誌面に載せることにしました。若い編集者はこうして、毎月かなり重い説教の積み荷を運ぶことになったと気づきました。そこで、雑誌がもっぱら宗教誌に見えてしまわないよう、文芸の記事は質の高いもので、説教に劣らずおもしろいものにしようと決めました。けれども、それにはさらに資本が必要で、出資してもらったお金はそのためのものではありませんでした。

ここで役に立ったのが、エドワードが自筆の手紙集めを通じて築いた知り合いでした。彼は、これまでに会った著名人を一人ずつ訪ね、苦しい事情を説明し、自分の抱負を語りました。その結果、ほどなく雑誌界も世間も、「ブルックリン・マガジン」の寄稿者の豪華さに驚くことになりました。毎号、目を見張るような寄稿者の名前が並びました。そして、当時の合衆国大統領ラザフォード・B・ヘイズの記事がある号の巻頭を飾ったとき、世間は仰天しました。それまで、大統領が書くものは公式の声明に限られるという不文律は、ほとんど破られたことがなかったからです。ウィリアム・ディーン・ハウエルズ、グラント将軍、シャーマン将軍、フィリップス・ブルックス、シェリダン将軍、ファラー参事会員、ギボンズ枢機卿、マリオン・ハーランド、マーガレット・サングスター――当時もっとも名の知れた男女、なかには雑誌に一度も書いたことのない人までが、若い編集者の目次に名を連ねはじめました。ほかの編集者たちは、発行人たちがどうやってそんな費用を払えるのかと首をかしげました。ところが実際には、原稿料を払った名前は一つもありませんでした。寄稿者はみな、無償で編集者を助けに来てくれたのです。

最初のうちは、発行部数が少なかったので、少年たちは自分たちで雑誌を包装することができました。それから二人は、ほかの二人の少年と一緒に、持ち上げられるかぎりの大きな束を抱え、夜遅くに路面電車の前部デッキに積み込んで、郵便局まで運びました。ですから少年たちは、束の重さと、毎月前部デッキで何往復したかによって、発行部数の伸びを文字どおり肌で知っていたのです。やがて一晩だけパン屋の手押し車を借りて、前部デッキの運搬量に上乗せするようになりました。そして記念すべきある月、馬車を使わなければならないことがわかりました。3週間もたたないうちに二頭立ての荷馬車が必要になり、しかも3往復しなければなりませんでした。

このころにはエドワード・ボックは編集の仕事に、共同経営者は定期刊行物の発行の仕事に、すっかり夢中になっていました。そこで二人は、劇場プログラムの事業を売り払い、雑誌と、その急速に伸びている部数に専念することにしました。エドワードの編集の仕事は、当然すべて勤務時間外に、つまり夜と日曜日にしなければならず、若い編集者は手いっぱいの状態になりました。このころ彼は、一つのテーマを選んで、10人から20人の書き手にそれぞれの意見を述べてもらうという古いやり方を復活させました。昔からある誌上シンポジウムの手法でしたが、アメリカのジャーナリズムでは何年も行われていませんでした。彼は「アメリカにもウェストミンスター寺院が必要か?」というテーマを考え出し、当時の第一線の男女およそ20人に論じてもらいました。この議論を雑誌に載せるにあたっては、形式も新しくテーマも目新しかったので、エドワードは抜かりなく新聞各社に事前に刷り見本を送りました。新聞はそれを書評や社説で大きく取り上げ、雑誌の部数にはっきりとした効果がありました。

ジェイ・グールドの速記係

このあいだずっと、エドワード・ボックは夜には編集者でしたが、昼間はウエスタン・ユニオン電信会社の速記者兼事務員でした。二つの仕事はとても両立するものではありませんでしたが、どちらも少年にとっては収入源であり、両方を手放すわけにはいかないと感じていました。

父が亡くなってからというもの、少年の机の位置――父の空いた机のすぐ隣――が、いつも彼の気持ちを沈ませていました。会社の顧問弁護士クラレンス・ケアリー氏はそれを察して、エドワードの部署の長に掛け合ってくれました。その結果、エドワードはケアリー氏の部署に移り、弁護士の専属速記者になりました。

エドワードはケアリー氏にとても惹かれていましたし、弁護士のほうも少年を信頼し、引き立ててやることで目をかけていることを示そうと決めていました。エドワードが二つの役割をこなしていることを耳にしたケアリー氏は、雑誌を一冊買って読み、興味を持ちました。エドワードは雇い主であり友でもあるこの人のために、新たな熱意をもって働きました。そして空いた時間にはいつも法律を読みました。祖先のほとんどが法律家だったので、自分もひょっとすると法曹の道に進む運命なのかもしれないと感じていたのです。ざっと触れた程度ではありましたが、法律の基本を知ったことは、エドワード・ボックにとって福音のようなものになりました。後年、会社法、契約、不動産の賃貸借などに関わるたびに、その価値を繰り返し思い知らされました。そして彼は、息子たちがどんな道に進むにせよ、それぞれ少なくとも1年は法律を学ばせようと決めたのです。

ウエスタン・ユニオン電信会社の経営権は、このころジェイ・グールドとその仲間たちの手に移っていました。そこから生じた多くの法律案件のために、エドワードは職場で「ウォール街の小さな魔術師」を目にすることがたびたびありました。ある日、この大物投資家は契約書を口述する必要があり、ケアリー氏の部屋に入ってきて、その場で口述することにしました。1時間後、エドワードが契約書の清書をグールド氏に届けると、グールド氏はその正確さと筆跡の読みやすさにすっかり感心しました。それからというもの、ほとんど毎日のように「たまたま立ち寄って」は、ケアリー氏の速記者に口述するようになりました。グールド氏の専属速記者はブロードウェイの下手にある彼自身のオフィスにいましたが、グールド氏は朝、ダウンタウンへ向かう途中に必ずブロードウェイ195番地のウエスタン・ユニオン・ビルに立ち寄りました。その習慣が高じて、とうとうそこに専用の部屋が設けられました。彼は速記のためにエドワードを借りていきました。少年は、グールド氏の口述で手紙を書き取るだけでなく、彼にとって特に興味深いことに、株の売買の注文まで書き取るようになったのです。

エドワードは、自分が書き取って気送管でグールド氏の仲買人へ送り出すこうした小さなメモが、株式市場にどんな影響を及ぼすかを見守りました。当然ながら、その結果は少年を夢中にさせ、彼は自分の発見をケアリー氏に話しました。今度はケアリー氏がそれに興味を持ちました。グールド氏の口述はケアリー氏自身の部屋で行われることも多く、ケアリー氏の机は速記者の机から10フィートも離れていなかったので、弁護士にはそれが聞こえました。そして彼は、この大物の判断どおりに株を売り買いしはじめたのです。

初めての株取引

エドワードは、この大投資家が絶えず繰り広げている株のゲームに、すっかり夢中になっていました。少しばかり貯金もあったので、グールド氏の注文のあとについていこうと考えました。ある日、この投資家がとりわけ機嫌がよさそうなときに、エドワードは無邪気にも自分の望みを口にしてみました。けれども、期待していた助言を引き出すことはできませんでした。「少なくとも」とエドワードは考えました。「あの人は私のつもりを知ったわけだ。もしそれが信頼を裏切ることだと思えば、そう言ったはずだ」

投資家の沈黙を、少なくとも禁止ではないという意味に受け取ったエドワードは、ウォール街の証券会社の共同経営者だった日曜学校の先生のところへ行き、事情を打ち明けて、ウエスタン・ユニオンの株を買ってもらえないかと頼みました。ただしエドワードは、「信用取引」で買うという賭けのような考え方がどうも好きになれないので、現物で買いたいと説明しました。そうすれば利益は小さくなると教えられましたが、少年の頭には、主に「株の信用取引」が原因で父が財産を失ったことがありました。その二の舞いを演じるつもりはなかったのです。こうして慎重に、日曜学校の先生の仲介で、しかも株式市場の金融を牛耳るほどの人物の情報に導かれて、エドワード・ボックはウォール街への最初の一歩を踏み出したのです!

もちろん、少年の売り買いは、ウエスタン・ユニオン株の上がり下がりとぴたりと一致しました。そうならないはずがありません。ジェイ・グールドが手札をすべて握っていて、彼が売り買いするとおりにエドワードも売り買いしたのですから。困ったのは、このつながりがそこで終わらなかったことでした。エドワードがもっと年上で、それだけ賢かったなら、予想できたかもしれません。エドワードが売り買いするとおりに日曜学校の先生も売り買いし、さらに、ウエスタン・ユニオンを売り買いするまさにその時機を選ぶ仲買人のすばらしい眼力を目の当たりにした、先生の顧客全員も同じように売り買いしていたのです。けれども、エドワードはそれを知りませんでした。

ある日、ウォール街に一つのうわさが流れました。ウエスタン・ユニオン社と、その激しい競争相手であるアメリカン・ユニオン電信会社とのあいだで合意が成立し、前者が後者を吸収することになった、というのです。当然、このうわさはウエスタン・ユニオン株に影響しました。ところがグールド氏はそれを全面的に否定しました。うわさは事実ではない、そのような合併は予定されていないし、検討されたことすらない、と。株価はもちろん急落しました。

けれども、たまたまエドワードは、そのうわさが本当だと知っていました。少し前に、グールド氏本人から合併契約書を渡されて、清書していたからです。翌日、今度はアメリカン・ユニオンがウエスタン・ユニオンを吸収するといううわさが、ニューヨークのすべての新聞の一面に載りました。エドワードは、このうわさがどこから出たのかを正確に知っていました。それが話し合われるのを聞いていたのです。ウエスタン・ユニオン株はまた何ポイントも下がりました。するとグールド氏が大量に買いはじめたことに、エドワードは気づきました。エドワードも買いました――買えるかぎりたくさん。ジェイ・グールドはこの最新のうわさを一笑に付しました。少年は成り行きを待ちました。

日曜日の午後、エドワードの日曜学校の先生が、一緒に歩いて帰ろうと少年を誘いました。家に着くと先生は彼を書斎に招き入れ、株価がこれほど急落し、相場がこれほど不安定なまさにこのときに、貯金をすべてウエスタン・ユニオンにつぎ込んで大丈夫だと思っているのかと尋ねました。エドワードは、自分は間違っていないと先生に請け合いました。ただし、そう言いきれる根拠は明かせないと説明しました。

エドワードには、先生が心配そうに見えました。しばらくして打ち明けられたのは、エドワードが限度いっぱいまで買っているのを見て、先生も同じようにしていたということでした。ただし仲買人である先生は信用取引で買っていて、うわさによる株価の下落で証拠金をすっかり失っていました。彼はエドワードに説明しました。損失はたしかに大きい――実のところ、持っているもののほとんどすべてがかかっている――けれども、エドワードの根拠が確かで株価が回復すれば、損を取り戻せるのだ、と。

エドワードは、自分に負わされた責任を痛いほど感じました。先生のこの新しい一面を見たときの自分の気持ちを、彼はどうしてもはっきりと言い表すことができませんでした。仲買人の「顧客」のこともほのめかされ、18歳の少年は、自分の責任がどこまで及ぶのか、どれほど多くの人が関わっているのかと考え込みました。けれども、取引はうまくいきました。3日後に契約が公表されると、ウエスタン・ユニオン株は当然ながら急騰し、ジェイ・グールドは売り抜け、エドワードも売り抜け、先生である仲買人も売り抜け、顧客たちもみな売り抜けたのです!

そのつながりがどれほど長く続いていたのか、エドワードには結局わかりませんでした。けれども、彼はその場でウォール街での経験を終わりにしようと決めました。元手は何倍にもなっていました。彼はそれで満足し、深追いはしないことにしました。そしてその日から今日まで、エドワード・ボックはウォール街に近づいていません。その駆け引きはもう十分に見ました。「内部」にいたとはいえ、先生とその顧客たちまで背負うのは、自分には重すぎる責任だと判断したのです。

ウエスタン・ユニオンを去る

さらにエドワードは、ウエスタン・ユニオンを辞めることにしました。長くいればいるほど、そこの空気が好きになれなくなっていました。そしてジェイ・グールドと近しくなるほど、そういう人とつきあうことが賢明なのか、人格が形づくられるこの時期に、自分の人生に知らず知らずのうちに影響を及ぼすのではないかと、疑いが深まっていきました。

実のところ、エドワードの決心を固めたのは、グールド氏とのある出来事でした。ある土曜日、この投資家は、翌週の月曜日に鉄道の視察旅行に出かけることにしました。出発前に、彼が関わる鉄道会社の一つで臨時の会議を開く必要があり、日曜日の11時半に五番街の自宅で会議を開くことにしました。そして、会議の記録をとるために来てほしいとエドワードに頼みました。

会議は長引き、1時になるとグールド氏は、昼食のためにいったん休会して2時に再開しようと提案しました。投資家はエドワードのほうを向いて言いました。「昼食に出て、1時間後に戻ってきなさい」。こうして日曜日の午後、何か食べられそうな場所といえば、通りの向かいの角にあるウィンザー・ホテルしか見当たらないのに、とてもそこへ行ける余裕はなく、ポケットにたった15セントしか持っていないエドワードは、昼食の場所を探しに外へ放り出されたのです。

彼は5セントでリンゴを3つ買いました。使えるのはそれだけでした。それでさえ、フェリー乗り場からブルックリンの家まで歩いて帰らなければならないことを意味していました。1時間がたつまで、五番街を行ったり来たりしながら、そのリンゴを食べました。3時に会議が終わると、グールド氏は、明日の朝早く西部へ発つので、記録を清書して8時までに自宅に届けてほしいと言いました。議事録はノート40ページ以上にもなりました。エドワードは日曜日の午後の残りと夜をすべて、その清書に費やしました。翌朝5時半に起きて、8時15分前にグールド氏の家に着き、議事録を手渡しましたが、この投資家からはお礼のひとことも、よくやったというひとうなずきもなく、そのまま帰されました。

エドワードは、これは雇い主が雇い人に対してとるべき公正な扱いの限度を越えていると感じました。彼はケアリー氏にそのことを話し、このような影響から離れて別の職を探したいのだが、差し支えないかと尋ねました。雇い主が、どういう方面に進みたいのかと尋ねると、エドワードはためらうことなく出版業を挙げました。彼は雇い主とあらゆる角度から話し合いました。ケアリー氏は、その決断は賢明だと同意してくれただけでなく、彼が考えているような職を見つけてあげようと約束してくれました。

ほどなくケアリー氏はその言葉を実行し、友人の出版人ヘンリー・ホルトが、エドワードを試しに雇ってみたいと言っていると伝えてくれました。

ウエスタン・ユニオン電信会社を辞める前日、彼が辞職することがグールド氏の耳に入りました。投資家は少年に、辞める理由など何もない、給料を大幅に上げるよう自分が直々に取り計らう、と言いました。エドワードは、給料は自分にとって大事ではあるけれども、それよりも、もっと幸せに働けると思える業界で職を得ることのほうが大きな理由なのだと説明しました。

「それで、その業界というのは?」と投資家は尋ねました。

「本の出版です」と少年は答えました。

「それは大きな間違いだ」と、この小柄な男は鋭い灰色の目で少年を見据えて答えました。「本はぜいたく品だ。世間がいちばん大きなお金を使うのは必需品、つまりなくては困るものだよ。電報は打たなければならないが、本は読まなくてもいい。読むなら図書館で読める。君のような将来のある有望な少年は、正しい種類の商売を選ぶべきで、間違った商売を選ぶべきではない」

けれども、事実が示したとおり、「ウォール街の小さな魔術師」の予言は外れていました。エドワード・ボックは、間違った商売を選んだわけではなかったのです。

何年もたったある土曜日の午後、エドワードがヨット遊びの一行とハドソン川をさかのぼっていたときのことです。アーヴィントンに近づくと、ジェイ・グールドの豪邸が見えてきて、船上の女性たちは、あのすばらしいランのコレクションを見てみたいと言いだしました。エドワードは、かつてこの投資家のもとで働いていたことを話し、覚えてもらっているかどうか賭けてみてもよければ、自分から名乗ってみようと申し出ました。グールド氏に宛てて手紙を書いて岸へ届けさせると、どうぞ温室をご覧くださいという返事が戻ってきました。ジェイ・グールドは自ら一行を出迎え、案内を庭師に任せると、エドワードのほうを向き、ベンチを指さして言いました。「こちらへ来て、一緒に座りなさい」

「さて」と、ウォール街で見せる顔とはまるで違う、くつろいだ様子の投資家は言いました。「新聞で見ると、君は出版の世界でなかなか頭角を現しているようだね」

エドワードは、ウォール街の大物が自分の仕事を追いかけていてくれたことに驚いたと伝えました。

「追いかけていたとも。君には成功する人間になる素質があると、いつも思っていたからね。だが、あの業界ではない」と彼はすぐに付け加えました。「君はウォール街のために生まれてきた人間だ。あそこなら大成功していただろう。私が君に考えていたのもそれだった。出版業では、ある程度までしか行けない。ウォール街なら、どこまででも好きなだけ行けただろう。あそこには余地がある。出版業にはない。もっとも、今からでも遅くはないがね」と、この「小さな魔術師」は、隣に座る若者に鋼のような目を据えて続けたのです!

ジェイ・グールドについていっていたら自分はどこへ導かれていただろうかと、エドワード・ボックはたびたび思いをめぐらせました。多くの若者にとっては、あれほどの人物からの提案なら、耳を傾けて従うべきものに思えたことでしょう。けれども、エドワード・ボックの直感が彼を裏切ることはありませんでした。自分の道はジェイ・グールドの道とは遠く離れたところにある――そして、離れていればいるほどよい、と彼は感じていたのです!

1882年、エドワードははっきりとした安堵を感じながらウエスタン・ユニオン電信会社を辞め、出版業に身を投じました。自分の未来はそこにあると、彼は正しく見抜いていたのです。

職を離れるにあたっていちばん心残りだったのは、ケアリー氏とのあいだの、ほとんど父と子のような親密な関係を断つことでした。父を亡くしてひとりぼっちになったエドワードを、クラレンス・ケアリーはかばうように腕で包み込み、「エドワード、君には成功する人間になる素質があると思うよ」という、少年が生涯忘れなかった大きな励ましの言葉とともに、彼を自分の庇護のもとに置いてくれたのです。それはエドワード・ボックの人生の転機でした。当時もそう感じていましたし、のちにはいっそうはっきりとそれがわかりました。

とはいえ、彼はその友人と連絡を取り続け、その当時だけでなく後年にわたってずっと、自分がしていることすべての進み具合を知らせていました。そしてエドワードは、ケアリー氏が亡くなる前に、あの少年は寄せられた信頼に十二分に応えてくれたと言ってもらうという、深い満足を味わうことができました。ケアリー氏は、エドワードが順調に歩みを進めるのを見届けるまで長生きしました。エドワードは、恩人の名を受け継いだ息子、ケアリー・ウィリアム・ボックを本人に引き合わせるという、誇らしい幸せを味わうことができたのです。


第6回:フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧

第8回:新聞配信の事業を始める