ボック『エドワード・ボックのアメリカ化』全訳(10)初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ

この記事は、雑誌「レディース・ホーム・ジャーナル」を30年間率いた編集者エドワード・ボック(1863〜1930年)が1920年に出版した自伝『The Americanization of Edward Bok』(翌年ピュリッツァー賞を受賞)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。原文では著者自身を三人称の「エドワード・ボック」と書いており、訳文もそれに従っています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全39回)

  1. アメリカでの最初の日々
  2. 初めての仕事:週給50セント
  3. 独学への渇望
  4. 大統領との交友とボストン巡礼
  5. ロングフェローと劇場へ
  6. フィリップス・ブルックスの本とエマーソンの霧
  7. ウォール街に飛び込む
  8. 新聞配信の事業を始める
  9. ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり
  10. 初めての「女性のページ」、「文学の葉」、そしてスクリブナー社へ(この記事)
  11. 成功のチャンス
  12. 砲火の洗礼
  13. 出版の出来事と逸話
  14. ニューヨーク最後の年
  15. 編集者として成功する
  16. 女性誌の編集者としての最初の数年
  17. ユージン・フィールドのいたずら
  18. 雑誌を育てる
  19. 人柄が伝わる手紙
  20. いくつかの挫折
  21. 建設的な仕事の見本
  22. 街と個人の芸術への挑戦
  23. セオドア・ルーズベルトの影響
  24. ルーズベルトの匿名の論説
  25. 大統領と少年
  26. 文学の裏階段
  27. 女性クラブと女性参政権
  28. キプリングとの帰郷と講演旅行
  29. 女性の本質への小旅行
  30. 売薬などの悪弊を一掃する
  31. 市民生活への取り組み
  32. 戸惑うボック
  33. 何百万人に届く方法
  34. 戦時の雑誌と戦時の活動
  35. 大戦の前線で
  36. 30年の編集者生活の終わり
  37. 第三の時期
  38. アメリカが私に足りなかったこと
  39. 私がアメリカに負っているもの

新聞に「女性のページ」を

ビーチャー氏の週1回の新聞配信(シンジケート)の書簡は、それ自体が成功しただけではありませんでした。書き手本人にも、二人の若い発行者にもたっぷりとお金をもたらしましたし、何より、エドワード・ボックが構想していた配信代理業を、これ以上ないほど有利な条件で新聞各社に売り込むきっかけになったのです。ひと息に新聞編集者たちの注目を集めることができたので、エドワードはこの機会をすぐに生かそうと決めました。彼はニューヨークに事務所を置いて「ボック・シンジケート・プレス」を設立し、兄のウィリアム・J・ボックを共同経営者兼実務の責任者にしました。もちろんエドワードの昼間は、ホルト社での仕事で埋まっていました。そこで彼は、出版事業についての知識をじかに身につけていたのです。

エドワードはこのとき初めて、女性とその読書習慣に目を向けました。アメリカの女性は新聞を読まない、という事実に興味を持ったのです。その心理を探ろうとし、新聞をいろいろ見比べた末に、女性向けの独自の記事がないことが一因だという結論にたどり着きました。ニューヨークの有力な編集者何人かとこの件を話し合うと、彼らは、女性の関心を引いて自分の新聞の読者にできるなら、それ以上に望むことはないと率直に認めました。けれども同じくらい率直に、女性が何を求めているのかわからないし、仮にわかったとしても、そういう記事をどこで手に入れればいいのかわからない、とも打ち明けました。エドワードは、ここに誰も手をつけていない分野があるとすぐに見抜きました。しかも実りの多い分野です。買い物の決定権を握っているのは女性なのですから、新聞が女性の読者層を抱えることができれば、広告の面で大きな利益になるはずでした。

当時「ニューヨーク・スター」紙に、「バブのおしゃべり(Bab's Babble)」という気の利いたニューヨークのうわさ話のコラムが載っていました。エドワードはそれを読んで、これを「ニューヨークから届く女性の手紙」として配信できるのではないかと考えました。全国の女性が読むだろうと直感的にわかったのです。彼は筆者を探し出し、本人と、同紙のオーナーだったドーシャイマー元州知事と話をまとめ、その手紙をいくつかの新聞に配信しました。すぐに大成功となり、たちまち90紙の配信網ができあがりました。

エドワードはこれに続けて、当時人気の絶頂にあったエラ・ウィーラー・ウィルコックスに、女性の話題について週1回の手紙を書いてもらう契約を結びました。これをもう一つの手紙と一緒に配信すると、編集者たちは決まって二つを同じ場所にまとめて載せました。そこから自然に、女性が関心を持つ記事を丸ごと1ページ分提供するという発想が生まれました。この計画を何人かの編集者に持ちかけると、彼らはすぐにその可能性を見て取り、協力を約束してくれました。若い配信業者は、当時の有名な女性作家たちに片っ端から寄稿を頼み、男性の書き手からも選りすぐりの人に女性の話題について書いてもらいました。ほどなくして、配信会社は女性向けの記事を1ページ分提供するようになりました。新聞各社はこの新しい試みを大きく扱い、こうしてアメリカの新聞界に「女性のページ」が登場したのです。

ボック・シンジケート・プレスが提供する記事は一級品でした。水準は高く保たれ、書き手は当時もっとも人気のある作家の中から選ばれ、何より読みやすさが第一とされました。女性たちはこの新しいページが載っている新聞を買うようになり、広告主は新しい読者の存在を感じ始めました。そして「ボック・ページ」と呼ばれるようになったこのページの権利を得られなかった新聞は、どこも独自に「女性のページ」を始めました。当然ながら、そうして集めた記事は質が劣りました。100紙で費用を分担できる配信会社が払える原稿料を、一つの新聞社が単独で払えるはずはありません。それに、そうした女性のページの編集者たちには、水準も方針もありませんでした。困り果てた彼らは、「女性向けのネタをどっさり集めてこい」と、つかまえられる人なら誰でも雇いました。それはまさに「ネタ」、それも最低の中身でした。こうして、この発想は生まれたのとほとんど同時に乱用され、崩れていきました。その結果が、今日の新聞で「女性のページ」として通っている、中身のない紙面なのです。

これは一流の新聞の女性向け記事にさえ言えることで、その理由を探すのは難しくありません。ふつうの編集者には、女性の関心の移り変わりを研究する時間などないのが普通です。彼の時間はニュース面と社説面に取られていますし、そうでなければなりません。彼は日曜版の「特集」を、たいてい別の編集者に任せます。ところがその編集者も、刻々と変わる女性の問題、とりわけ近ごろの問題を研究する時間はほとんどなく、あてにならない助言に頼るか、あるいは「女性なのだから、女性が何に関心を持つかはわかっているはずだ」と気楽に考えて、どこかの女性に「女性のページ」を丸投げしてしまいます。

しかしこの問題をほとんど考えたことがないので、彼は女性向けの「ネタ」をたいして重要なものとは見なさず、むしろ「女性を引きつけるために載せておかなければならないもの」くらいに考えています。そしてすぐにそのことを忘れてしまうか、女性のページの担当編集者に、記事にかける費用として当然の予算すら出そうとしません。結果はもちろん避けられません。価値のない記事が並ぶページです。実際、今日の日曜版の新聞で、家庭向け、女性向け、子ども向けと銘打ったページほど、上質で、いまや高価にもなった紙がむだに使われている部分はありません。

文学コラム「文学の葉」

エドワード・ボックは、書籍出版に関わっているうちに、次のように確信するようになりました。アメリカの女性が新聞を読んでいないのと同じように、アメリカの国民全体も、その知性と豊かさ、そして本の安さを考えれば当然読むべき量の本を読んでいない、と。そこで彼は、新聞に書籍の世界のニュースをもっと広く、もっと目立つ形で載せてもらえないか試してみることにしました。

彼はいつも作家たちと接していたので、作家の計画を実行前に知ることができるという、きわめて恵まれた立場にいました。また、書籍出版の世界の裏も表もわかり始めていました。彼は自分の配信記事を購読している新聞を回って話をしましたが、文学のニュースに紙面を割くことには乗り気でないことがわかりました。ふつうの編集者にとって、純粋に文学的な記事は、女性向けの記事ほど魅力がなかったのです。本に関心のある人は少ない、と彼らは言いました。そのうえ出版社は、百貨店ほど気前のよい広告主ではありませんでした。すべては商売の問題だったのです。

エドワードは、ニュース性があって読みやすいニューヨーク発の文学の手紙なら、読者が関心を持つことを編集者に納得させられると信じていました。そこで「ニューヨーク・スター」紙の編集者を説き伏せ、同紙に載っていたジョージ・パーソンズ・ラスロップの書評を補う形で、「文学の葉(Literary Leaves)」という文学の雑談コラムを書かせてもらいました。彼は何週間もこの欄を書き続けましたが、掲載はこのニューヨークの新聞だけにとどめました。読みやすい文体を身につけるには経験が必要だと感じていましたし、読みやすい文学情報を途切れずに流し続けられるだけの、実りの多い情報源を十分に開拓できたと確信したかったからです。

ときどき彼は、とりわけニュース性が高いと思う回を、あちこちの編集者に「ご参考までに、売り物ではありません」と言って送りました。この手紙を自分の新聞に載せたいと最初に気づいたのは「フィラデルフィア・タイムズ」紙の編集者で、「ボストン・ジャーナル」紙がそれに続きました。次に「シンシナティ・タイムズ・スター」紙の編集者が「ニューヨーク・スター」紙でこの手紙を見つけ、毎週送ってほしいと頼んできました。これらの新聞はこの手紙を「ボックの文学の葉」と改名し、この記事は成功への道を歩み始めたのです。

スクリブナー社に入る

エドワードがヘンリー・ホルト社で事務員兼速記者として働き始めて2年がたったころ、ケアリー氏が彼を呼んで、もし職場を変える気があるなら、チャールズ・スクリブナーズ・サンズ社に空きがあると教えてくれました。エドワードは、スクリブナー社ほどの重要な出版社なら、もっと大きなチャンスがあるとすぐに見て取り、ただちにチャールズ・スクリブナー氏に連絡を取りました。その結果、1884年1月、彼はこの出版社に入社し、会社の二人の経営者と、同社の文芸顧問であるエドワード・L・バーリンゲーム氏の速記者となりました。給料は週18ドル33セントで、当時の速記の仕事としては妥当な額とされていました。当時はまだタイプライターが使われておらず、手紙はすべて手書きでした。ここでも、読みやすい字が彼に職をもたらしたのです。

エドワード・ボックはこのとき21歳でした。彼はすでに、その年ごろの若者としてはとてつもない量の仕事をこなしていました。いつも忙しくしていました。夜の空き時間は一瞬残らず、文学の手紙を書くか、新聞配信用の記事を手配・編集するか、いまも続けていた自筆の手紙の収集をこつこつ進めるか、ビーチャー氏の文筆の仕事を手伝うかに充てられていました。プリマス教会の牧師であるビーチャー氏は、エドワードが自分の書いたものをうまく売り込んでくれたことをとりわけ喜び、のちにこう書いています。「私の文筆の仕事を軌道に乗せ、そこからお金を引き出せた人間は、ボックただ一人だ」

この若者に進取の気性と行動力があったことは疑いありません。けれども、彼の人生をここまで振り返っただけでも、彼が結んだ友情や、人生でもっとも人格が形づくられる時期に身近に接した人々という点で、いかに幸運が続いていたかがわかります。若きボックの、いつでも働こうとする姿勢とある種の主体性を評価したくなるのなら、彼に働きかけたさまざまな影響も考えに入れなければなりません。

たとえば、スクリブナー社に入ったときの、まさに偶然の巡り合わせを考えてみてください。二人の経営者の速記者として、ボックはすぐに当時の一流作家たちに接することになりました。口述される手紙の中で話し合われる彼らの作品や、どういう条件で本が出版されるのかにも触れました。実際、彼は、若者として得られる限りもっとも深く、アメリカ有数の大手出版社の内部の仕組みを知ることになったのです。しかもその出版社は、作家の顔ぶれの立派さと、刊行書の幅の広さで特に知られていました。

スクリブナー社は、あらゆる出版社の中でもっとも優れた神学書の目録を持っていました。教育書の目録は際立って充実しており、音楽書の目録も抜きん出ていました。小説では当時の一流作家を抱え、一般書の目録も特に注目に値するものでした。さらに、英国やヨーロッパで出た主要な本を輸入する外国書籍部門は、この事業の目玉でした。ボックに口述される手紙は当然これらの分野すべてにわたっており、速記者にとってこれほどすばらしい独学の機会はありませんでした。

バーリンゲーム氏は、きわめて鋭い文学的鑑識眼で出版界に知られており、優れた小説を見きわめる最高の目利きの一人と認められていました。ボックがスクリブナー社に入ったのは、ちょうどバーリンゲーム氏が、過去10年間に発表された短編小説の中から傑作を選び、『アメリカ作家短編集(Short Stories by American Authors)』というシリーズにまとめようとしていたときでした。このシリーズに関する手紙はボックに口述されたので、彼はバーリンゲーム氏のあとを追って読んでいき、当時最高の小説がどういうものかをつかもうと決めました。そこで、上司が作家に、その作品をシリーズに収録する許可を求める手紙を書くたびに、ボックはすぐにその作品を探し出して読みました。

のちに同社が「スクリブナーズ・マガジン」を創刊することを決め、バーリンゲーム氏が編集長に選ばれると、準備段階の手紙はすべて雇い主を通じてボックに口述されました。こうして彼は、雑誌を発行するのに必要な仕組みを整える過程について、じかに学ぶことになりました。彼はそのすべてを貪るように吸収しました。

彼はまた、自分の机が同社の広告部に置かれたという点でも幸運でした。そこで部長をしていたのは、昔ブルックリンで一緒に学校に通った幼なじみ、フランク・N・ダブルデイでした。今日のダブルデイ・ページ社の筆頭経営者です。ボックは劇場のプログラムや「ブルックリン・マガジン」での経験から広告に惹かれていましたが、ここでは、その技術をじかに、しかも最良の伝統に沿って学ぶ機会が与えられたのです。そこで彼は、速記の仕事の手が空くたびに、ダブルデイ氏を手伝って同社の本の広告を作り、掲載先に出しました。

ダブルデイ氏はちょうど、「ブック・バイヤー(The Book Buyer)」という社内報の発行を再開しようとしていました。その手伝いをする機会を得たボックは、定期刊行物の世界に戻ってきたように感じました。ダブルデイ氏の指導のもとで、この小さな月刊誌はほどなく、かなりの厚さがあり、全体に本の話題でまとめられた文芸誌へと成長したので、なおさらでした。

同社はもう一つ、「プレスビテリアン・レビュー(The Presbyterian Review)」という定期刊行物も出していました。プリンストン神学校とユニオン神学校に関係する教授たちの委員会が編集する季刊誌です。いかめしい見た目のこの雑誌は、いわゆる「軽い読み物」とは言えない内容で、1冊80セントという値段でもあり、当然ながら見込める広告の数も限られていたので、なかなか売りさばくのが難しい雑誌でした。このように、スクリブナー社の状況はすべて、エドワードに出版事業全般の訓練を与えるのにうってつけでした。またとない機会だったのです。

彼は朝早くから夜遅くまで働きました。ほどなく昇給があり、雇い主が自分に満足していることがわかりました。やがて新しい「スクリブナーズ・マガジン」が創刊され、少しあとにダブルデイ氏がその事業面の責任者を任されると、ボック自身が広告部の責任者となり、二つの定期刊行物の発行業務も引き受けることになりました。

スティーヴンソンの素顔

彼は突然、自分が速記者であることをやめ、速記者に指示を出す立場になっていました。どうやら見習いの時代は終わったようです。さらに彼は、新刊の書評用献本をすべて新聞・雑誌に送り、その書評を記録しておく仕事も任されました。そのため、自分の作品がどう受け止められたかを知りたい同社の作家たちが、自然と彼の机にやって来るようになりました。

自分の本の書評を追いかけることに熱心な作家と、まったく関心のない作家とを観察するのは、若いボックにとって夢中になれる遊びになりました。彼はすぐに、作家は偉大であればあるほど、いったん出版された自分の本には関心がなくなるらしいと気づきました。ボックがとりわけそれを感じたのは、ロバート・ルイス・スティーヴンソンの場合でした。ボックはその作品に惹かれていたので、あの手この手で本人を事務所に誘い出し、書評を読ませようとしましたが、一度もうまくいきませんでした。スティーヴンソンは、新聞や雑誌が自分の本について何と言っているかに、少しも関心がないようでした。

ある日、バーリンゲーム氏がボックに、ゲラ(校正刷り)をスティーヴンソンの自宅まで届けてほしいと頼みました。『ジキル博士とハイド氏』の出版に続いて世間の喝采が起きていたので、作家の関心を引くにはいい機会かもしれないと考え、ボックは書評の切り抜きの束をポケットに入れていきました。行ってみると、作家はベッドの中で、いつものように紙巻きたばこをくゆらせていました。

ゲラは持ち帰ることになっていたので、ボックは待っていました。おかげで2時間近く、作家が仕事をする様子を見る機会に恵まれました。スティーヴンソンほど丹念にゲラに目を通す人はいませんでした。直しはたくさんあり、ときには10分間も座ったままたばこを吸いながら、たった一つの文についてじっと考え、頭の中で納得のいく形になると、それをゲラの上で書き直すのでした。

こういうときのスティーヴンソンは、見栄えのする人物ではありませんでした。血色の悪い黄ばんだ肌、ぼさぼさの黒髪、長く伸ばしっぱなしの爪、たばこで変色した指。要するに、彼独特のだらしなさがあって、ボックは、スティーヴンソンは会うより読むほうがいい作家だと感じました。それでも、その親切さと穏やかさは、外見の魅力のなさを補って余りあるものでした。

ボックが1、2度訪ねてスティーヴンソンが彼に慣れてくると、作家は原稿の中のある文について話したり、直した段落を声に出して読み上げて、前よりよくなったと思うかとボックにたずねたりするようになりました。文章家としてのスティーヴンソンを評価するなど、もちろんボックの頭脳の手に負えることではなかったので、意見を求められても彼は慎重に黙っていました。

実際、ボックは考えた末に、この小説家は本当に答えや意見を期待しているのではなく、そういうときは考えを声に出しているだけなのだと理解しました。それでも、その思考の過程はとてつもなく興味深いものでした。とくに、スティーヴンソンがボックに、隣のテーブルにある言葉の本(辞典のたぐい)を取ってくれと頼むときはそうでした。「ぴったりの言葉を見つけるのは本当に難しい」とスティーヴンソンは言うのでした。ボックはこのとき初めて、「楽に書けば読むのが難しく、苦労して書けば楽に読める」という格言が真実であることを実感しました。

その日、スティーヴンソンが仕事を終えると、ボックは切り抜きを取り出し、本がどう受け止められているか、どれくらい売れているか、会社がどんな広告をしているかを話し、リチャード・マンスフィールドによる近々の舞台化についても説明してから、書評の束を差し出しました。

スティーヴンソンはその束を受け取り、手に持ったままでした。

「いろいろ話してくれてありがとう。とても面白かったよ」と彼は言いました。「でも、君はもう全部話してくれたじゃないか。それなら、どうしてこの書評を読む必要があるんだい? それより、バーリンゲームさんの次の号のために、もう一本原稿に取りかかったほうがいいんじゃないかな。でないと催促されてしまう。編集者ってのがどれだけせっかちか、君も知っているだろう」。そう言って、彼は書評を返してよこしました。

ボックは、これ以上は無駄だと悟りました。スティーヴンソンは自分の仕事には関心があっても、ある一線を越えると、世間がそれをどう受け止めるかには関心がなかったのです。ボックの中で、この作家への評価は計り知れないほど高まりました。その態度は、新聞が何と書いたかを見に、ほとんど毎日のように事務所にやって来るほかの作家たちとは、あまりにも対照的でした。そういう作家たちは、書評を持ち帰ると言い張って、若い広告部長を困らせることもよくありました。けれどもボックはいつも、「そうなると、もちろん本の広告にこのありがたい書評を引用できなくなりますが」と作家に念を押して、その要求をかわしました。すると決まって、書評は置いていかれるのでした!

ベストセラーを売り出す

こうして、若い広告担当者の手に、当時もっとも広く読まれ、もっともよく知られることになる本のいくつかについて、世間の関心をかき立てる仕事が回ってきました。ロバート・ルイス・スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』、フランシス・ホジソン・バーネットの『小公子』、アンドリュー・カーネギーの『勝利の民主主義(Triumphant Democracy)』、フランク・R・ストックトンの『女か虎か?』と『ラダー・グレンジ(Rudder Grange)』、そのほか次々と出る本です。

これらの本の広告は、成長しつつあった広告部長の宣伝感覚を鋭く研ぎ澄ましました。ある本は、ふつうの陳列広告という従来のやり方でいちばんうまく宣伝できました。別の本、たとえば『勝利の民主主義』は、印象的な抜粋を集めた「ブロードサイド(一枚刷りのちらし)」を新聞各社に送るのがいちばん効果的でした。『女か虎か?』のような小説の場合は、もちろん、作者がこの物語を書いたときに本当はどんな結末を考えていたのか、という文学ニュースを流すことで、世間の好奇心をあおりました。ストックトン氏が事務所に来るたびに、ボックはこの物語にまつわる体験談を根掘り葉掘り聞き出しました。たとえば、ある晩餐会で、女主人が作家の前にアイスクリームでできた貴婦人と虎を出し、同席者全員が彼がどちらを選ぶかを見守った、という話です。

「それで、どちらを選んだんですか?」と広告部長はたずねました。

「ブルータス、おまえもか?」とストックトンは笑って答えました。「では教えてあげよう。私は給仕長にスプーンをもう一本持ってきてもらって、両手に一本ずつスプーンを持ち、貴婦人と虎の両方に同時に取りかかったのさ」

あるとき、ストックトンが夜行船でボストンに行こうとしたところ、部屋がすべて埋まっていました。切符売り場の係員は作家に気づき、貴婦人と虎のどちらを考えていたのか教えてくれるなら、いい部屋を用意しましょうと持ちかけました。

「部屋を出してくれたまえ」とストックトンは答えました。

係員は部屋を用意しました。ストックトンは代金を払ってから、こう言いました。「本当のことを言うとね、君、私にもわからないんだよ」

それは本当のことでした。ストックトン氏は友人たちにもそう打ち明けていました。この物語の着想にすっかり魅了された彼は、書き始めたときにははっきりした結末をつけるつもりでした。ところが最後までたどり着くと、開いた扉から貴婦人と虎のどちらを出すべきか、自分でもわからなくなってしまったのです。「だからね」と彼はよく説明していました。「宙ぶらりんのままにしておこうと決めたんだ」

今の世代の読者には、ストックトンのこの物語についての話はどれも奇妙に聞こえるかもしれません。けれども当時、この作品は何か月ものあいだもっとも話題にされた物語で、ものすごい部数が売れたのです。

ある日、ストックトン氏がボックの事務所にいたとき、挿絵画家のA・B・フロストが入ってきました。フロストはニュージャージーに120エーカーの土地を持つ一人前の農場主になっており、ストックトンは南部に大きな農場を持っていて、それが経済的な重荷になっていました。

「やあ、ストックトン」とフロストは言いました。「ついに、農場がお金を食いつぶすのを止める方法を見つけたよ。君の役にも立つかもしれない」

ストックトンは書き物をしていましたが、この希望の持てる知らせに顔を上げ、目を輝かせ、ペンを置いて、身を乗り出して言いました。

「教えてくれ」

するとフロストは、逃げ道があるのを確かめるように後ろを振り返ってから、こう答えました。

「全部舗装しちまうのさ、君」

『ジキル博士とハイド氏』と『小公子』が舞台化されると、ボックにはまったく違う種類の宣伝をする機会が与えられました。どちらの舞台も大成功で、何週間も続けて上演されました。ボックは毎晩、劇場のすべての座席に本のちらしを置き、各劇場のロビーには本を積んだテーブルを置きました。そして、スティーヴンソン作品の一人二役で、マンスフィールド氏がどうやって一方の人物からもう一方の人物へ早変わりするのかという話や、バーネット夫人の劇に出ている少年トミー・ラッセルの逸話を、新聞各社に次々と送り込みました。本の売れ行きは順調に伸び、舞台の成功と足並みをそろえました。そしてこのすべてが、若い広告担当者の主体性を研ぎ澄まし、宣伝の感覚を育てたのです。

ある日、彼はある出版社の経営者に会うため控室で待っていたとき、1冊の本を手に取って読み始めました。1時間近く待たされたので、ようやく社長室に通されたときには、その本のかなりの部分を読み終えていました。用件が済むと、ボックはその出版者に、どうしてこの本は売れていないのかとたずねました。

「わからないんだ」と出版者は答えました。「大いに期待していたんだが、どういうわけか世間の反応がなくてね」

「世間への伝え方が正しいと言い切れますか?」とボックは思い切って言ってみました。

このころにはスクリブナー社の広告は出版界の注目を集めていたので、この出版者は、若い訪問者の提案に喜んで耳を傾けるつもりでした。

「うちで出していたらよかったのに」とボックは言いました。「私なら売れる本にできると思います。必要なものは全部、本の中にあるんです」

「君ならどう広告するかね?」と出版者はたずねました。

ボックは、あとでお知らせしますと約束しました。彼はその本を1冊持ち帰り、広告文をいくつか書き、抜粋を集めた魅力的な「ブロードサイド」を作りました。その本は抜粋にしやすい本だったのです。さらに文学ニュースもいくつか書き、そのすべてをまとめて出版者に送りました。ボックが用意した「原稿」は一つ残らず使われ、本は売れ始め、3か月もしないうちに、その年もっとも話題の本になりました。

その本とは、エドワード・ベラミーの『顧みれば(Looking Backward)』でした。


第9回:ヘンリー・ウォード・ビーチャーとの関わり

第11回:成功のチャンス