フォード『わが人生と仕事』全訳(19)第18章:民主主義と産業

この記事は、アメリカの自動車メーカー、フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォード(1863〜1947年)が、サミュエル・クラウザーの協力を得て1922年に出版した『My Life and Work』を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全20回)

  1. 序章:そもそも、どういう考えなのか
  2. 第1章:事業の始まり
  3. 第2章:事業について学んだこと
  4. 第3章:本当の事業を始める
  5. 第4章:製造と奉仕の秘訣
  6. 第5章:生産に取りかかる
  7. 第6章:機械と人
  8. 第7章:機械への恐れ
  9. 第8章:賃金
  10. 第9章:なぜいつも景気よくいられないのか
  11. 第10章:物はどこまで安く作れるか
  12. 第11章:お金と商品
  13. 第12章:お金は主人か、召使いか
  14. 第13章:なぜ貧しくあるのか
  15. 第14章:トラクターと動力農業
  16. 第15章:なぜ慈善なのか
  17. 第16章:鉄道
  18. 第17章:あれこれ
  19. 第18章:民主主義と産業(この記事)
  20. 第19章:これから期待できること

「民主主義」という言葉と、階級という作り話

今の時代、「民主主義」ほど使い古された言葉はないかもしれません。そして、それを最も声高に叫ぶ人ほど、たいていは民主主義を最も望んでいないのではないかと私は思っています。民主主義についてぺらぺらと語る人を、私はいつも疑いの目で見てしまいます。その人は何かしらの専制政治を打ち立てたいのか、それとも本来は自分でやるべきことを誰かに代わりにやってもらいたいのか、と考えてしまうのです。私が支持するのは、一人ひとりに、その能力に応じて平等な機会を与えるような民主主義です。仲間の役に立つことにもっと心を向ければ、政治の空虚な形式にこだわることは減り、なすべきことにもっと関心が向くようになるはずです。奉仕のことを考えていれば、産業や生活の中での「良い感情」をあれこれ気にする必要はなくなりますし、大衆と階級だとか、クローズドショップとオープンショップだとか、生きていくという本当の仕事とはまったく関係のない問題に頭を悩ませることもなくなります。そうすれば事実に向き合えます。私たちに必要なのは事実なのです。

人間のすべてが人間らしいわけではない、つまり、ある集団がまるごと、他の人々に対して人間らしい情を持っていないという事実に気づいたとき、人は衝撃を受けます。これを特定の階級の態度であるかのように見せようと大いに努力がなされてきましたが、実際には、「階級」という誤った考え方に振り回されている限り、あらゆる「階級」に共通する態度なのです。以前、人間らしい情を欠いているのは「金持ち」だけだと人々に信じさせようとする宣伝がひっきりなしに行われていたころには、「貧しい人々」のあいだでは人間らしい美徳が花開いている、という見方が広まりました。

しかし「金持ち」も「貧しい人」も、どちらもごく少数派にすぎず、社会をそうした区分けで分類することはできません。そんな分類が役に立つほど「金持ち」は多くありませんし、「貧しい人」も多くありません。金持ちが性質を変えないまま貧しくなったこともありますし、貧しい人が金持ちになったこともあります。それでも問題そのものは何も変わりませんでした。

金持ちと貧しい人のあいだには、金持ちでも貧しくもない大勢の人々がいます。百万長者だけでできた社会があったとしても、今の社会と何も変わらないでしょう。百万長者の誰かが小麦を育て、パンを焼き、機械を作り、列車を走らせなければなりません。そうしなければ、全員が飢え死にしてしまいます。誰かが仕事をしなければならないのです。実のところ、私たちの社会に固定した階級などありません。働く人と働かない人がいるだけです。よく話題にされる「階級」のほとんどは、まったくの作り話です。ある種の資本家寄りの新聞を読んでみてください。労働者階級についての記述に驚かされるはずです。かつて労働者階級の一員であり、今もその一員である私たちには、そうした記述が事実でないことがわかります。今度はある種の労働者向けの新聞を読んでみてください。「資本家」についての記述に、やはり同じように驚かされるでしょう。とはいえ、どちらの側にも一片の真実はあります。資本家であるだけでそれ以外の何者でもなく、他人の労働の成果で博打を打つような人間は、どれほど非難されても仕方がありません。そういう人間は、労働者から賃金をだまし取るけちな博打打ちとまったく同じ部類に入ります。資本家寄りの新聞に載る労働者階級についての記事は、大企業の経営者が書いたものであることはまれで、雇い主を喜ばせると思うことを書く一群の書き手によって書かれています。彼らは、喜ばれるだろうと想像することを書くのです。労働者向けの新聞を調べてみれば、今度は、労働者が持っていると彼らが思い込んでいる偏見をくすぐろうとする、別の一群の書き手がいることがわかります。どちらの書き手も、ただの宣伝屋にすぎません。そして事実を広めない宣伝は、自滅します。また、自滅すべきなのです。人々から奪い取るあいだおとなしくさせておくために愛国心を説く、などということを、いつまでも続けられるものではありません。一生懸命働いてたくさん生産する義務を説きながら、それを自分の利益を上乗せする隠れみのにすることもできません。そして同じように、労働者のほうも、一日分の仕事をしていないことを言葉でごまかすことはできません。

雇う側が、雇われる側が健全な意見を持ち、公正な判断を下すために知っておくべき事実を握っていることは間違いありません。雇われる側もまた、雇う側にとって同じくらい重要な事実を握っていることは間違いありません。しかし、どちらか一方がすべての事実を握っているかというと、それは非常に疑わしいところです。そして、まさにここに宣伝の欠陥があります。たとえ宣伝が完全に成功することがありえたとしてもです。ある考え方を、別の考え方を持つ階級に「押しつける」のは望ましいことではありません。私たちに本当に必要なのは、すべての考えを持ち寄り、そこから組み立てていくことです。

労働組合の幹部と「盲目の経営者」

たとえば、労働組合とストライキ権の問題全体を取り上げてみましょう。

この国の組合員の中で唯一力を持っている集団は、組合から給料をもらっている人々です。その中には非常に裕福な人もいます。大手金融機関の動向に影響を及ぼそうとしている人もいます。いわゆる社会主義がきわめて過激で、ボリシェヴィズムや無政府主義すれすれの人もいます。彼らは組合から給料をもらっているおかげで働く必要がなく、そのぶんの精力を体制転覆の宣伝に注ぎ込めるのです。そして誰もが、普通に競争していたら手にすることのできなかった、ある種の威信と権力を享受しています。

もし労働組合の幹部たちが、組合員の大多数を占める人々と同じくらい強く、正直で、まっとうで、素朴な知恵を備えていたなら、この数年の組合運動全体はまったく違った様相を呈していたでしょう。ところがこの幹部たちは、大部分が──目立った例外もありますが──労働者が本来持っている強い資質と手を組むことに力を注いできませんでした。むしろ労働者の弱さにつけこむことに力を注いできたのです。とりわけ、アメリカ精神とは何かをまだ知らない、新しくやってきた層の弱さにつけこんできました。その人たちは、地元の組合指導者の指導に任されている限り、いつまでたってもアメリカ精神を知ることはないでしょう。

「階級闘争」という誤った教義を吹き込まれ、進歩とは産業の中に不和をかき立てることだという考え方(「日給12ドルを手に入れても、そこで止まるな。14ドルを求めて騒げ。1日8時間労働を手に入れても、ばかみたいに満足するな。6時間を求めて騒げ。何か始めろ!いつも何かを始めるんだ!」)を受け入れてしまったごく一部の人を除けば、労働者たちには、原則が受け入れられ守られれば状況は変わるのだと理解できるだけの素朴な良識があります。組合指導者たちには、それが一度もわかったためしがありません。彼らは状況が今のまま、つまり不公正と挑発とストライキと反感と、国の暮らしが損なわれた状態のままであってほしいのです。そうでなければ、組合幹部の必要などどこにあるでしょうか。ストライキが起きるたびに、それが彼らにとって新たな論拠になります。それを指さして「ほら見ろ。まだ俺たちが必要だろう」と言うのです。

本当の労働指導者とは、労働者を仕事と賃金へ導く人であって、ストライキやサボタージュや飢えへ導く人ではありません。この国で今台頭しつつある労働者の団結とは、利害がお互いに依存し合っている人々、つまり、自分たちが提供するサービスの有用さと効率にその利害がまるごとかかっているすべての人々の団結です。

変化はやってきつつあります。「組合指導者」たちの団結が消えるとき、それとともに盲目の経営者たちの団結も消えていくでしょう。強制されるまで従業員のためにまともなことを一つもしなかった経営者たちです。盲目の経営者が病だったとすれば、利己的な組合指導者はその解毒剤でした。組合指導者が病になったとき、盲目の経営者がその解毒剤になりました。どちらも場違いな存在で、よく組織された社会には居場所がありません。そして両者はそろって姿を消しつつあります。

今日「今こそ労働者を叩きつぶす時だ。やつらは逃げ腰だ」と言っている声は、盲目の経営者の声です。その声は、「階級闘争」を説く声とともに沈黙へと向かっています。製図板に向かう人から鋳造場の床で働く人まで、生産者たちは本当の意味で団結しました。これからは自分たちのことは自分たちで処理していくでしょう。

不満を食い物にすることは、今日では一つの確立した商売になっています。その目的は何かを解決することでも、何かを成し遂げることでもなく、不満を存続させておくことです。そのために使われる道具は、地球が今の地球である限り決して実現することのない、一連の誤った理論と約束です。

私は労働者の組織化に反対しているわけではありません。進歩につながる組織であれば、どんな種類のものにも反対しません。問題なのは、生産を制限するための組織化です。それが雇う側によるものであれ、働く側によるものであれ、同じことです。

怠けても仕事は増えない

労働者自身も、ある非常に危険な考え方には警戒しなければなりません。本人にとっても、国の繁栄にとっても危険な考え方です。労働者の仕事量が少ないほど、ほかの人のための仕事が生まれる、と言われることがあります。この誤りは、怠けることが何かを生み出すと仮定しています。怠けることが仕事を生み出したことなど一度もありません。生み出すのは負担だけです。勤勉な人が仲間の仕事を奪うことは決してありません。それどころか、勤勉な人こそが勤勉な経営者のパートナーとなって、事業をどんどん生み出し、したがって仕事もどんどん生み出していくのです。仕事で「さぼる」ことが誰かの役に立つ、という考えが良識ある人々のあいだにまで広まってしまったのは、実に残念なことです。少し考えれば、そんな考えの弱さはすぐにわかります。健全な事業、つまり人々がまっとうで十分な暮らしを立てる機会をどんどん生み出している事業とは、一人ひとりが誇りを持てる一日分の仕事をしている事業です。そして最も安定した国とは、人々が正直に働き、生産の手段を使って小細工をしない国です。経済の法則をいいかげんに扱うことはできません。そんなことをすれば、法則のほうから非常に手荒い仕打ちを受けることになるからです。

以前は10人でしていた仕事を今は9人でしているからといって、10人目が失業しているということにはなりません。その人はただ、その仕事に就いていないだけです。そして世間は、その仕事に本来より多く支払うことで、その人を養う負担を背負わずにすんでいるのです。結局のところ、支払うのは世間なのですから!

効率のために組織を見直すほど目覚めていて、しかも世間に対しては必要な費用だけを請求してそれ以上は取らないほど正直な会社は、たいていとても進取の気性に富んだ会社なので、10人目を雇う仕事はいくらでもあります。そういう会社は必ず成長しますし、成長とは仕事が増えるということです。うまく経営されている会社は、世間が負担する労務費を下げる方法を常に探しています。そして、だらだらと経営を続けて自分たちのまずい経営のつけを世間に払わせている会社よりも、確実に多くの人を雇うことになります。

10人目は不必要なコストでした。最終的な消費者がその人に給料を払っていたのです。しかし、その特定の仕事で不必要だったからといって、世の中の仕事の中で、あるいはその人の職場の仕事の中でさえ、不必要だということにはなりません。

まずい経営のつけは、すべて世間が払っています。今日の世の中の困りごとの半分以上は、人々が大切なお金を払わされている「さぼり」や水増しや手抜きや非効率です。一人でできる仕事に二人分の給料が払われているところでは、どこでも人々は本来の2倍を払っているのです。そして実際に、ほんの少し前のアメリカでは、一人あたりで見て、戦争前の数年間に生産していた量を生産できていませんでした。

一日分の仕事というのは、決められた時間だけ職場で「勤務についている」ことを意味するのではありません。受け取る賃金に見合うだけのサービスを提供することを意味します。そしてその釣り合いがどちらかの方向に崩れると、つまり受け取る以上に与えたり、与える以上に受け取ったりすると、ほどなく深刻なゆがみが表に出てきます。その状態が国じゅうに広がれば、事業は完全にひっくり返ってしまいます。産業上の困難とは、結局のところ、職場における基本的な釣り合いが壊れることにほかなりません。経営者も労働者と一緒に責任を負わなければなりません。経営者もまた怠けてきたのです。経営者は、やり方を改善して従来の人員のうち100人をほかの仕事に回せるようにするより、500人を追加で雇うほうが楽だと考えてきました。世間が払ってくれていて、景気もよかったので、経営者はまったく気にかけませんでした。事務所でも職場とまったく同じことが起きていました。釣り合いの法則は、労働者によるのと同じくらい経営者によっても破られていたのです。ただ要求するだけで手に入る大事なものは、実際にはほとんどありません。だからこそ、ストライキはいつも失敗に終わるのです。たとえ成功したように見えてもです。賃上げや時短を勝ち取っても、その負担を社会に押しつけるストライキは、実際には失敗です。それはただ産業がサービスを提供する力を弱め、その産業が支えられる仕事の数を減らすだけです。だからといって、正当なストライキが一つもないと言っているわけではありません。ストライキによって悪いところに注意が向けられることもあります。人は正当な理由でストライキをすることができます。それで正義が得られるかどうかは、また別の問題です。適切な労働条件と正当な報酬を求めるストライキは、正当化できます。残念なのは、当然自分のものであるはずのものを得るのに、ストライキという手段を使わざるをえないことです。どんなアメリカ人も、自分の権利のためにストライキを強いられるべきではありません。権利は自然に、たやすく、当たり前のこととして受け取れるべきです。こうした正当なストライキは、たいてい雇い主の落ち度によるものです。雇い主の中には、その職にふさわしくない人もいます。人を雇うこと、つまり人の力を方向づけ、その生産高と事業の繁栄に正直に見合った報酬を決めることは、決して小さな仕事ではありません。旋盤の前に立つ人が仕事に向いていないことがあるのと同じように、雇い主も自分の仕事に向いていないことがあります。正当なストライキは、そのボスには別の仕事、つまり自分に務まる仕事が必要だというしるしです。向いていない雇い主は、向いていない従業員よりも多くの問題を引き起こします。従業員なら、もっと向いた別の仕事に移すことができます。しかし雇い主のほうは、たいてい報いの法則に任せるほかありません。ですから正当なストライキとは、雇い主がきちんと自分の仕事をしていれば、そもそも起こす必要のなかったストライキなのです。

隠れた狙いのあるストライキ

二つ目の種類のストライキがあります。隠れた狙いを持つストライキです。この種のストライキでは、労働者たちが、彼らを使って自分の目的を果たそうとする黒幕の道具にされます。例を挙げてみましょう。ここに、世間の必要に効率的で巧みな生産で応えたことで成功した大きな産業があるとします。公正であるという実績もあります。こういう産業は、投機家にとって大きな誘惑になります。支配権さえ握れば、そこに注ぎ込まれてきた正直な努力のすべてから、豊かな利益を刈り取ることができるからです。従業員に恩恵をもたらす賃金や利益分配をつぶし、世間からも製品からも労働者からも最後の1ドルまで搾り取り、低い原則で運営されているほかの企業と同じ境遇にまで引きずり下ろすことができます。その動機は投機家個人の強欲かもしれませんし、正しいことをしたくないほかの雇い主たちにとってその事業の手本が目障りなので、事業の方針を変えさせたいのかもしれません。その産業には内側から手を出すことはできません。従業員にはストライキをする理由がないからです。そこで別の方法がとられます。その事業は、材料を供給してくれる多くの外部の工場に仕事を回しているかもしれません。その外部の工場を止めることができれば、その大産業を麻痺させられるかもしれないのです。

そこで、外部の産業でストライキがあおられます。工場への供給源を細らせるために、あらゆる手が打たれます。外部の工場の労働者たちがこれがどういう勝負なのかを知っていれば、加わるのを断るでしょう。しかし彼らは知りません。知らないまま、たくらみを持つ資本家の道具になってしまうのです。ただし、この種のストライキに加わっている労働者が疑いを持つべき点が一つあります。どちらの側がどんな提案をしてもストライキが解決しないのであれば、それはストライキが続くことに利害を持つ第三者がいることの、ほぼ確実な証拠です。その隠れた勢力は、どんな条件であれ解決を望んでいないのです。そういうストライキにストライキ側が勝ったとして、労働者の境遇はよくなるでしょうか。その産業を外部の投機家の手に渡してしまったあとで、労働者はよりよい待遇や賃金を与えられるでしょうか。

三つ目の種類のストライキがあります。労働者の評判を落とす目的で、金融勢力が引き起こすストライキです。アメリカの労働者は、昔から健全な判断力を持っているという評判を得てきました。何もないところから千年王国を作り出してみせると約束して叫ぶ人に、いちいちついていくようなことはしてきませんでした。自分の頭を持ち、それを使ってきました。道理が欠けているのを暴力で埋め合わせることなどできない、という根本的な真理を常にわきまえてきました。そうしてアメリカの労働者は、自国の人々のあいだでも世界じゅうでも、ある種の信望を勝ち得てきたのです。世論は、彼らの意見や望みを敬意をもって受け止める傾向にありました。ところが、アメリカの労働者をあおって、ありえない態度やまったく前代未聞の行動をとらせ、世論を敬意から批判へと変えさせることで、アメリカの労働界にボリシェヴィキの汚名を着せようとする、執拗なたくらみがあるように見えます。とはいえ、ストライキを避けるだけでは産業は発展しません。私たちは労働者にこう言うかもしれません。

「あなたには不満がある。しかしストライキは解決策にはならない。勝っても負けても、状況を悪くするだけだ」

すると労働者は、それが正しいと認めて、ストライキを控えるかもしれません。それで何かが解決するでしょうか。

いいえ!労働者が、望ましい条件を実現するのにふさわしくない手段としてストライキをやめるのなら、それはつまり、雇い主が自分から動いて、欠陥のある条件を正さなければならないということなのです。

フォード社と労働組合

フォードの事業における労働者との経験は、アメリカでも海外でも、まったく満足のいくものでした。私たちは組合に敵意は持っていませんが、従業員側の組織とも雇用者側の組織とも、いかなる取り決めにも加わっていません。私たちが払っている賃金は、どんな良識ある組合でも要求しようと思いつく額より常に高く、労働時間は常に短くなっています。組合に加入していても、うちの人たちのためにしてやれることは何もありません。組合に入っている人もいるかもしれませんが、おそらく大多数は入っていません。私たちは知りませんし、知ろうともしません。私たちにとってはまったくどうでもいいことだからです。私たちは組合を尊重し、そのよい目的には共感し、悪い目的は非難します。組合のほうも私たちを尊重してくれていると思います。私たちの工場で、組合が公式に従業員と経営陣のあいだに割って入ろうとしたことは一度もないからです。もちろん、過激な扇動家がときどき騒ぎを起こそうとしたことはあります。しかし従業員たちはたいてい、彼らを単なる人間の変わり種と見なしてきました。彼らに向ける関心は、4本足の人間に向けるのと同じ種類の関心でした。

イギリスでは、マンチェスター工場で労働組合の問題に正面から向き合うことになりました。マンチェスターの労働者はほとんどが組合に入っていて、イギリスの組合によくある生産量の制限が広く行われています。私たちは、組合員の大工が何人もいる車体工場を買い取りました。すぐに組合の幹部が、私たちの経営陣に面会して条件を取り決めたいと申し入れてきました。私たちは自社の従業員とだけ話をし、外部の代表者とは決して交渉しないので、うちの人たちは組合幹部との面会を断りました。すると幹部たちは大工たちにストライキを指令しました。大工たちはストライキをせず、組合から除名されました。そこで除名された人たちは、共済基金の自分の持ち分を求めて組合を相手に訴訟を起こしました。その訴訟がどうなったのかは知りませんが、イギリスでの私たちの事業に組合幹部が干渉してきたのは、それが最後でした。

私たちは、一緒に働く人たちを甘やかそうとはしません。それはまったくの持ちつ持たれつの関係です。賃金を大幅に上げた時期には、確かにかなりの人数の監督係を置いていました。従業員の家庭生活を調べ、賃金を何に使っているのかを把握しようとしました。当時はそれが必要だったのかもしれませんし、貴重な情報も得られました。しかし恒久的な仕組みとしてはまったく通用しないので、すでにやめています。

私たちは、「愛想のいい握手」も、職業的に演出された「個人的なふれあい」や「人間的な要素」も信じていません。そんなものの時代はもう過ぎました。人は立派な心がけ以上のものを求めています。社会の状態は言葉でできているのではありません。人と人とのあいだの日々の関係が積み重なった結果なのです。最もすぐれた社会的な精神は、経営側に何らかの負担がかかり、しかも全員のためになるような行動によって示されます。善意を証明し、敬意を勝ち取る方法はそれしかありません。宣伝、社内報、講演──そんなものは何でもありません。大切なのは、誠実に行われた正しい行動です。

大きな事業は、個人より大きい

大きな事業というのは、実のところ、大きすぎて人間的ではいられません。大きくなりすぎて、人の個性に取って代わってしまうのです。大きな事業の中では、雇い主も従業員と同じように、全体の中に埋もれてしまいます。両者は一緒になって大きな生産組織を作り上げ、その組織が世の中の人々が買う品物を送り出し、その見返りに世の中が払うお金が、事業に関わるすべての人の暮らしを支えています。事業そのものが大きな存在になるのです。

何百、何千という家族の暮らしを支えている大きな事業には、何か神聖なものがあります。生まれてくる赤ん坊たち、学校に通う少年少女たち、仕事があるのを支えに結婚して所帯を持つ若い労働者たち、男たちの稼ぎから分割払いで代金が払われつつある何千という家々を見回したとき、そして、これらすべてを可能にしている大きな生産組織を見たとき、その事業を続けていくことは神聖な託されごとになります。それは個々の人間よりも大きく、重要なものになるのです。

雇い主も従業員と同じ一人の人間にすぎず、人間としてのあらゆる限界を抱えています。雇い主がその地位にとどまってよいのは、その役目を果たせる限りにおいてだけです。事業をまっすぐに導くことができ、従業員が、雇い主は自分の担当部分をきちんと、自分たちの生活の安定を脅かすことなくやってくれると信頼できるなら、その人は自分の役目を果たしています。そうでなければ、その地位にふさわしくないという点では赤ん坊と変わりません。雇い主も、ほかの誰とも同じように、ただ能力だけで評価されるべきです。従業員にとって、雇い主はただの名前、看板に書かれた名前にすぎないかもしれません。しかし事業はそこにあります。事業は名前以上のものです。事業は暮らしの糧を生み出します。そして暮らしの糧というのは、とても手ごたえのあるものです。事業は現実のものです。実際に物事をなします。現に動いている存在です。それがふさわしいものである証拠は、給料袋が途切れずに届き続けることなのです。

「和」に頼りすぎる危うさ

事業において、調和が多すぎて困るということはまずありません。しかし、調和するからという理由で人を選ぶことは、行きすぎになりえます。調和が多すぎて、生きていることそのものである押し合いや突き返しが、つまり努力と進歩を意味する競争が、十分になくなってしまうこともあるのです。組織が一つの目的に向かって調和して働くことと、組織がその構成単位一つひとつと調和して働くことは、別のことです。組織の中には、調和の感じを保つことにあまりに多くの力と時間を使ってしまい、その組織がつくられた目的のために働く力が残っていないところもあります。組織は目的の次に来るものです。価値のある調和のとれた組織とは、全員が一つの主要な目的、つまり目標へ向かって進むことに打ち込んでいる組織だけです。心から信じ、本気で望む共通の目的──それこそが、人々を調和させる大きな原理なのです。

周りにいつも「良い雰囲気」がなければ仕事ができないほど、やわでぐにゃぐにゃした哀れな人を、私は気の毒に思います。そういう人は実際にいます。そして結局のところ、「感情」に甘えて頼る状態から抜け出せるだけの精神的・道徳的なたくましさを身につけない限り、そういう人は失敗者になります。事業で失敗するだけではありません。人格の面でも失敗するのです。まるで、自分の足で立てるほどの硬さにまで骨が育たなかったかのようです。私たちの会社組織は、良い感情にあまりにも頼りすぎています。人は、好きな人と一緒に働くことを好みすぎます。それは結局、多くの貴重な資質を損なってしまうのです。

誤解しないでください。私が「良い感情」という言葉を使うとき、それは、自分個人の好き嫌いを唯一の判断基準にしてしまう習慣のことを指しています。ある人を好きになれないとしましょう。それはその人にとって何か不利な点になるでしょうか。むしろあなたにとって不利な点かもしれません。あなたの好き嫌いが事実と何の関係があるのでしょうか。常識のある人なら誰でも、自分が嫌いな人の中に、実は自分より有能な人がいることを知っています。

本当の民主主義とは

そしてこの話を職場の外、もっと広い分野にまで広げてみると、金持ちが貧しい人を愛する必要も、貧しい人が金持ちを愛する必要もありません。雇い主が従業員を愛する必要も、従業員が雇い主を愛する必要もありません。必要なのは、それぞれが相手に対し、その人にふさわしいだけの公正を尽くそうとすることです。それこそが本当の民主主義であって、れんがやモルタルや炉や工場を誰が所有すべきかという問題ではありません。そして民主主義は、「誰がボスになるべきか」という問題とは何の関係もありません。

それは、「四重唱でテノールを歌うべきなのは誰か」と尋ねるのとよく似ています。言うまでもなく、テノールを歌える人です。カルーソーをその座から降ろすことはできなかったでしょう。仮に、音楽の民主主義とでもいう理屈によって、カルーソーが音楽のプロレタリアートに追いやられたとしましょう。それで、彼の代わりを務める別のテノールが育ったでしょうか。それとも、カルーソーの才能は相変わらず彼自身のものであり続けたでしょうか。


第18回:第17章:あれこれ

第20回:第19章:これから期待できること