フォード『わが人生と仕事』全訳(10)第9章:なぜいつも景気よくいられないのか

この記事は、アメリカの自動車メーカー、フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォード(1863〜1947年)が、サミュエル・クラウザーの協力を得て1922年に出版した『My Life and Work』を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前のアメリカで書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全20回)

  1. 序章:そもそも、どういう考えなのか
  2. 第1章:事業の始まり
  3. 第2章:事業について学んだこと
  4. 第3章:本当の事業を始める
  5. 第4章:製造と奉仕の秘訣
  6. 第5章:生産に取りかかる
  7. 第6章:機械と人
  8. 第7章:機械への恐れ
  9. 第8章:賃金
  10. 第9章:なぜいつも景気よくいられないのか(この記事)
  11. 第10章:物はどこまで安く作れるか
  12. 第11章:お金と商品
  13. 第12章:お金は主人か、召使いか
  14. 第13章:なぜ貧しくあるのか
  15. 第14章:トラクターと動力農業
  16. 第15章:なぜ慈善なのか
  17. 第16章:鉄道
  18. 第17章:あれこれ
  19. 第18章:民主主義と産業
  20. 第19章:これから期待できること

「好況」と「不況」をくり返す事業

雇い主は一年単位で暮らしていかなければなりません。働き手も一年単位で暮らしていかなければなりません。ところが両者とも、たいていは週単位で働いています。注文や仕事は、取れるときに、取れる値段で取るのです。いわゆる好況のときには、注文も仕事もたっぷりあります。「不景気」の時期には、それが乏しくなります。事業はいつも、ごちそうか断食か、「好調」か「不調」かのどちらかです。この世の品物を誰もが持ちすぎている時期、誰もが快適すぎたり幸せすぎたりする時期など一度もありません。それなのに、品物に飢えた世界と、仕事に飢えた産業の機械とがあり、その二つ、つまり需要とそれを満たす手段とが、お金という壁によって引き離されているという、驚くべき光景が見られる時期がやって来ます。製造も雇用も、出たり入ったりの繰り返しです。着実に進むのではなく、発作的に進んでは止まり、あるときは速く進みすぎ、あるときはすっかり止まってしまうのです。大勢の人が買いたがると、品不足だと言われます。誰も買いたがらないと、生産過剰だと言われます。私たちの世界にずっと品不足があったことは知っていますが、生産過剰があったことは一度もないと私は考えています。ある特定の時期に、間違った種類の品物が多すぎることはあるかもしれません。それは生産過剰ではなく、単に頭を使わない生産です。高すぎる値段の品物を大量に抱えることもあるかもしれません。それも生産過剰ではなく、まずい製造か、まずい資金繰りのどちらかです。事業の良し悪しは運命の命じるままなのでしょうか。その状況を避けられないものとして受け入れなければならないのでしょうか。事業は、私たちがそうするから良くも悪くもなるのです。作物を育て、鉱物を掘り、ものを製造する理由はただ一つ、人々が食べ、暖をとり、着る服を持ち、使う品物を持てるようにするためです。それ以外の理由はありえません。それなのに、その理由は脇へ押しやられ、代わりに事業は奉仕のためではなく、お金を儲けるために営まれています。それは、便利な交換の手段であるはずのお金の仕組みを、ときに交換の妨げになるようなものへと私たちが発展させてしまったからです。これについてはあとで詳しく述べます。

私たちがいわゆる不運の時期にたびたび苦しむのは、ひとえに私たちのやり方がまずいからです。大凶作になれば国じゅうが飢えることもあるだろうとは想像できます。しかし、飢えや貧困がまずい経営だけから、とりわけ筋の通らない金融の構造に潜むまずい経営から生じているのに、それを私たちがなぜ我慢しているのかは理解できません。もちろん、戦争はこの国の状況をかき乱しました。世界全体をかき乱しました。経営がもっと良ければ、戦争は起こらなかったでしょう。しかし、戦争だけが悪いわけではありません。戦争は金融制度の多くの欠陥をあらわにしましたが、何にもまして、お金の土台だけに支えられた事業がいかに不安定かを示したのです。まずい事業がまずい金融のやり方の結果なのか、それとも事業の間違った動機がまずい金融のやり方を生んだのか、私にはわかりません。しかし、現在の金融制度をひっくり返そうとするのはまったく望ましくない一方で、奉仕を土台にして事業を作り直すことはまったく望ましい、ということはわかっています。そうすれば、より良い金融制度が生まれざるをえなくなるでしょう。現在の制度は存在理由がなくなるので、自然に消えていくでしょう。その過程は徐々に進むものでなければなりません。

季節の波は取り除ける

自分の事業を安定させる第一歩は、誰にでも踏み出せます。一人で取り組んでも完全な結果は得られませんが、手本が浸透しはじめれば後に続く人が現れます。そうして時がたてば、膨らみすぎた景気とその相棒である沈み込んだ景気とを、天然痘と同じ部類、つまり予防できる病気の部類に入れられるようになると期待できます。必ずやって来る事業と金融の再編成によって、季節そのものではないにせよ季節の悪影響を、そして周期的な不況をも、産業から取り除くことは十分に可能です。農業はすでに再編成の途上にあります。産業と農業が完全に再編成されれば、両者は互いに補い合うものになるでしょう。両者は別々ではなく、一緒にあるべきものなのです。その一例として、私たちのバルブ工場を見てください。私たちはこの工場を、働き手が農業も営めるように、18マイル離れた田舎に建てました。機械を使えば、農業にかかる時間は今のほんの一部ですむはずです。自然が作物を実らせるのに必要な時間は、種まきや耕作や収穫という人間が手を貸す時間よりずっと長いのです。また、部品がかさばらない多くの産業では、それをどこで作ってもたいした違いはありません。水力の助けを借りれば、農村地帯で十分に作れます。こうして、一般に知られているよりもはるかに広い範囲で、最も科学的で健康的な条件のもと、農業も営み工場でも働く「農業者兼工業者」を持つことができるのです。この仕組みで季節に左右される産業のいくつかは面倒を見られるでしょう。ほかの産業は、季節と設備に合わせて製品を順に切り替えるように段取りできますし、さらにほかの産業は、もっと注意深く経営することで季節の波をならすことができます。どんな問題でも、個別に徹底して研究すれば道は見えてきます。

不況の年にも伸びたフォードの販売

周期的な不況のほうが深刻です。あまりにも巨大で、手に負えないように見えるからです。全体の再編成が実現するまでは、完全に制御することはできません。しかし、事業に携わる一人ひとりが自分のために何かをすることはたやすくできますし、それによって自分の組織にきわめて実質的な利益をもたらしながら、ほかの人を助けることもできます。フォードの生産は、好況にも不況にも左右されませんでした。工場が戦争の仕事に振り向けられた1917年から1919年を除けば、状況にかかわらずずっと続いてきたのです。1912年から1913年は不景気な年だとされていました。もっとも今では「平年並み」と呼ぶ人もいます。この年、私たちは販売をほぼ倍にしました。1913年から1914年は不景気でしたが、販売を3分の1以上増やしました。1920年から1921年は、歴史上最も深刻な不況の年の一つだったとされています。私たちは125万台の車を売りました。これは「平年並み」の1913年から1914年のおよそ5倍です。そこに特別な秘密はありません。私たちの事業のほかのすべてのことと同じく、どんな事業にも当てはめられる原則を当てはめた、必然の結果なのです。

私たちは今、日給6ドルの最低賃金を無条件で払っています。人々は高賃金にすっかり慣れたので、監督は必要なくなりました。最低賃金は、働き手が生産の面で資格を満たしたらすぐに払われます。それは本人の働く意欲しだいです。私たちは利益の見込みを賃金に組み込み、今では戦後の好景気のときよりも高い賃金を払っています。しかし、いつもどおり、仕事を基準にして払っています。そして人々が実際に働いていることは、日給6ドルが最低賃金であるにもかかわらず、働き手のおよそ60パーセントが最低額より多くを受け取っているという事実が示しています。6ドルは一律の賃金ではなく、最低賃金なのです。

繁栄とは何か

まず、繁栄の基本を考えてみましょう。進歩は、あっと言わせる芸当を次々にやってのけることで生まれるのではありません。一歩一歩が調整されていなければなりません。考えずに進歩できると期待することはできません。繁栄を例にとりましょう。本当に繁栄している時代とは、できるだけ多くの人が、まっとうに食べ、着られるだけのものをすべて手にし、あらゆる意味で快適に暮らしている時代です。繁栄を示すのは、製造業者の銀行預金の額ではなく、人々全体の快適さの度合いなのです。製造業者の役割は、この快適さに貢献することです。製造業者は社会の道具であり、社会に奉仕できるのは、ますます良くなる製品をますます安い値段で人々に届け、同時に自分の事業に関わるすべての人に、その仕事に基づいて、ますます高くなる賃金を払えるように事業を経営するときだけです。このようにしてのみ、そしてこのようにしてのみ、製造業者や事業に携わる者は自らの存在を正当化できるのです。

好況と不況がくり返す周期について、経済学者の統計や理論に私たちはあまり関心がありません。彼らは物価が高い時期を「繁栄している」と呼びます。本当に繁栄している時期かどうかは、製造業者が品物につけている値段で判断すべきものではありません。

私たちは言葉の組み合わせには関心がありません。品物の値段が人々の収入より高いのなら、値段を収入まで下げればよいのです。ふつう事業は、製造の工程から始まり、消費者で終わるものだと考えられています。その消費者が、製造業者の売りたいものを買いたがらず、買うお金も持っていないと、製造業者は消費者を責めて景気が悪いと言います。そうして荷車を馬の前につなぐように本末を転倒させたまま、嘆きながら進んでいくのです。ばかげていると思いませんか。

製造業者が消費者のために存在するのでしょうか、それとも消費者が製造業者のために存在するのでしょうか。製造業者が売ろうとしているものを消費者が買おうとしない、あるいは買えないと言うとき、それは製造業者のせいでしょうか、それとも消費者のせいでしょうか。あるいは誰のせいでもないのでしょうか。誰のせいでもないのなら、製造業者は廃業するしかありません。

けれども、製造業者から始まって消費者で終わった事業など、いったいどこにあるでしょうか。車輪を回すお金はどこから来るのでしょうか。もちろん消費者からです。そして製造での成功は、ひとえにその消費者の気に入るように奉仕できるかどうかにかかっています。品質で奉仕することもできれば、値段で奉仕することもできます。最良の奉仕は、最高の品質を最低の値段で提供することです。最高の品質を最低の値段で消費者に提供できる人は、どんな品物を作っていようと、必ず事業の先頭に立ちます。これからは逃れられません。

それならば、なぜ景気が良くなるのを待ってまごまごしているのでしょうか。経営を良くしてコストを下げることです。値段を購買力まで下げることです。

賃下げは最も安易なやり方

賃金を下げるのは、この状況に対処する最も安易で、最もずさんなやり方です。非人間的なやり方であることは言うまでもありません。それは事実上、事業の経営者の無能を労働者に押しつけることです。気づきさえすれば、どの不況も、すべての製造業者に対して、自分の事業にもっと知恵を注ぎ込めという挑戦状なのです。ほかの人が賃下げで乗り切ろうとするものを、経営によって乗り切れという挑戦です。ほかのすべてを変える前に賃金に手をつけるのは、本当の問題から逃げることです。そして本当の問題に先に取り組めば、賃下げは必要なくなるかもしれません。それが私の経験です。当面の実際的な要点は、調整の過程で誰かが損をかぶらなければならないということです。そして、損をかぶれるのは、失っても大丈夫なものを持っている人以外に誰がいるでしょうか。とはいえ、「損をかぶる」という言い方はいささか誤解を招きます。本当は、損などまったくかぶっていないのです。それは、将来もっと多くを得るために、過去の利益の一部を手放すことにすぎません。少し前、ある小さな町の金物商と話をしていたとき、彼はこう言いました。

「在庫で1万ドルの損を出すつもりです。でも、もちろんおわかりでしょうが、本当にそれだけ失うのとは違うんです。私たち金物屋はかなりいい時期を過ごしてきました。在庫の大半は高値で仕入れたものですが、すでに何回分もの在庫を売って、その恩恵を受けています。それに、失うと言っている1万ドルは、以前持っていたのと同じ種類のドルではありません。ある意味で投機的なドルです。100セント分の値打ちのものが買えた、ちゃんとしたドルではないんです。ですから、損は大きく聞こえるかもしれませんが、大きくはありません。それと同時に、町の人たちが金物代の高さにくじけずに家を建て続けられるようにしているのです」

彼は賢い商人です。在庫を高値のまま抱えて地域の発展を妨げるより、利益を減らしてでも商売を回し続けるほうを選ぶのです。こういう人は町の財産です。頭がはっきりしています。配達係の賃金を削る、つまり彼らの購買力を削ることで調整を乗り切るより、在庫を通じて乗り切るほうがうまくやれるのです。

彼は値段にしがみついて、何かが起こるのをぼんやり待っていたりはしませんでした。かなり一般に忘れられているらしいこと、つまり、ときどきお金を失うのも事業主であることの一部だということを、彼はわかっていたのです。私たちも損をかぶらなければなりませんでした。

1700万ドルの在庫評価減

私たちの販売も、ほかのすべての販売と同じく、ついには落ち込みました。私たちは大量の在庫を抱えていました。その在庫の材料と部品を原価で計算すると、当時つけていた値段より安く車を作ることはできませんでした。しかしその値段は、景気の変わり目にあって、人々が払える、あるいは払おうとする額より高かったのです。私たちは方向を見定めるために工場を閉めました。在庫を1700万ドル切り下げるか、それとも商売をしないことでそれよりはるかに大きな損をかぶるか、という選択を迫られました。ですから、選択の余地などまったくありませんでした。

事業に携わる人にとって、選択はいつもこれです。帳簿の上で直接の損をかぶって商売を続けるか、商売をやめて遊んでいることによる損をかぶるかです。商売をしないことの損は、たいてい実際にかかわる金額より大きくなります。遊んでいるあいだに恐れが進取の気性を食いつぶし、休業が長引けば、ふたたび動き出すための気力がまったく残らなくなるからです。

景気が良くなるのを待っていても仕方がありません。製造業者が自分の役割を果たしたいのなら、値段を人々が払う額まで下げなければなりません。どんな状況であっても、必需品には人々が払えて、払おうとする値段がつねにあります。そして意志さえあれば、その値段にはいつでも応えられるのです。

品質を下げたり、目先の倹約をしたりしても、それには応えられません。そんなことをすれば、不満を抱いた働き手が残るだけです。騒ぎ立てたり、せかせか動き回ったりしても応えられません。応えられるのは、生産の効率を上げることによってだけです。そう考えれば、いわゆる不況はどれも、実業界の知恵に対する挑戦とみなすべきです。奉仕ではなく値段にばかり気をとられているのは、事業主として自分の存在を正当化できない種類の実業家であることの確かなしるしです。

これは言い方を変えれば、販売は本当の価値という自然な基準に基づいて行うべきだ、ということにすぎません。本当の価値とは、人間のエネルギーを商取引の品物へと変えるのにかかる費用です。しかし、この単純な公式は事業らしいとはみなされません。複雑さが足りないのです。私たちの「事業」は、人間のあらゆる活動のなかで最も誠実なものを取り上げて、食料やその他の品物の見せかけの品不足をつくり出し、社会に需要の不安をあおることのできる者たちの、投機的な抜け目なさに従わせています。見せかけの刺激があり、そのあとに見せかけの麻痺があるのです。

経済の仕組みと人間

経済の正義は、たえず、しかも多くの場合は悪気なく、踏みにじられています。経済の状況が人間を今のようにしているのだと言うこともできますし、人間が経済の状況を今のようにしているのだと言うこともできます。経済の仕組みが人間を今のようにしているのだと主張する人は大勢います。彼らは、人間全般に見られるあらゆる欠点を、私たちの産業の仕組みのせいにします。一方で、人間が自分の状況をつくり出すのだ、経済や産業や社会の仕組みが悪いのなら、それは人間そのものの姿を映しているにすぎない、と言う人もいます。私たちの産業の仕組みの誤りは、人間そのものの誤りを映しています。製造業者たちは、今の産業のやり方の誤りが、少なくとも部分的には自分自身の誤りを体系化し拡大したものだと認めるのをためらいます。しかし、問題をその人の身近な利害から切り離してみれば、すぐにその点がわかるのです。

人間の性質にもっと欠点が少なければ、欠点の少ない社会の仕組みが育っていたことは疑いありません。あるいは、人間の性質が今より悪ければ、もっと悪い仕組みが育っていたでしょう。もっとも、もっと悪い仕組みなら、おそらく今の仕組みほど長くは続かなかったでしょうが。しかし、人類がわざわざ欠陥のある社会の仕組みをつくろうとしたと主張する人はほとんどいないでしょう。社会の仕組みのあらゆる欠点が人間自身にあることを全面的に認めるとしても、人間が自分の不完全さをわざわざ組織化し、定着させたということにはなりません。多くは無知のせいにしなければならないでしょう。多くは無邪気さのせいにしなければならないでしょう。

今の産業の仕組みの始まりを考えてみてください。それがどう育っていくかを示すものは何もありませんでした。新しい前進はどれも喜びをもって迎えられました。「資本」と「労働」を敵対する利害と考えた人はいませんでした。成功そのものが、ひそかな危険をもたらすとは誰も夢にも思いませんでした。それでも、成長するにつれて、仕組みに潜んでいたあらゆる不完全さが表に出てきました。ある人の事業が大きくなり、名前で呼べる以上の人数の助手を抱えなければならなくなりました。しかし、そのことは残念がられるどころか、むしろ喜びをもって迎えられました。それなのに、それがその後、働き手が人間以下の何か、仕組みの単なる部品になってしまう、非人間的な仕組みへとつながったのです。もちろん、この人間性を奪う過程がわざと考え出されたと信じる人はいません。それはただ育ったのです。初期の仕組み全体のなかに潜んでいましたが、誰もそれに気づかず、誰も予見できませんでした。途方もない、前代未聞の発展だけが、それを明るみに出すことができたのです。

本当の産業の理念

産業の理念とは何かを考えてみましょう。本当の産業の理念は、お金を儲けることではありません。産業の理念とは、役に立つ考えを形にし、有用な考えを、それを必要とする人の数だけ、何千個でも複製することです。

生産し、さらに生産すること。生産を洗練された技にまで高める仕組みを手に入れること。生産を、拡大し、さらに多くの工場を建て、さらに何千もの役に立つものを生産する手段が得られるような土台に据えること。それこそが本当の産業の理念です。産業の理念の否定とは、仕事からではなく投機から利益を得ようとすることです。事業が一人の人間の利害よりも大きいことがわからない、目先しか見えない人たちがいます。事業とは、与えては受け取り、自分も生きて相手も生かす営みです。それは多くの力と利害の協力です。事業とは、その恵みの流れが自分のところに届いたとたんに止まるべき川だと信じている人を見つけたら、それは流れを止めることで事業を生かしておけると考えている人です。そういう人は、富の生産を止めることで富を生み出そうとしているのです。

奉仕の原則が、悪い事業を治せないはずはありません。そこで次は、奉仕と金融の原則を実際にどう当てはめるかという話に入ります。


第9回:第8章:賃金

第11回:第10章:物はどこまで安く作れるか