カーネギー『自伝』全訳(22)マシュー・アーノルドたち
この記事は、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835〜1919年)の自伝『Autobiography of Andrew Carnegie』(没後の1920年に出版)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前に書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。原文にある長い引用詩(アーノルドのソネット「シェイクスピア」、バーンズの墓碑銘の詩)は省略しました。
連載の構成(全29回)
- 両親と子ども時代
- ダンファームリンからアメリカへ
- ピッツバーグで働く
- アンダーソン大佐と本
- 電信局
- 鉄道の仕事
- ペンシルベニア鉄道の管区長
- 南北戦争のころ
- 橋の建設
- 製鉄所
- ニューヨークを拠点に
- 事業の交渉
- 鋼の時代
- 共同経営者、本、旅
- 馬車の旅と結婚
- 工場と働く人々
- ホームステッド・ストライキ
- 労働の問題
- 「富の福音」
- 教育と年金の基金
- 平和宮とピッテンクリーフ
- マシュー・アーノルドたち(この記事)
- イギリスの政治家たち
- グラッドストンとモーリー
- ハーバート・スペンサーとその弟子
- ブレインとハリソン
- ワシントンの外交
- ヘイとマッキンリー
- ドイツ皇帝に会う
魅力の人マシュー・アーノルド
これまで出会った中で最も魅力的な人物は誰かといえば、ジョン・モーリーと私の意見は一致しています。マシュー・アーノルド(Matthew Arnold)です。彼にはまさに「魅力」がありました。そばにいるときや話をしているときに受ける感じは、この言葉でしか言い表せません。表情や、重々しく黙っている様子にさえ、人を引きつけるものがありました。
たしか1880年のことだったと思いますが、彼は私たちの馬車旅行に加わり、イングランド南部を一緒にめぐりました。ウィリアム・ブラックとエドウィン・A・アビーも一行にいました。ある美しい村に近づいたとき、彼は馬車を数分止めてもらえないかと私に尋ねました。ここには名づけ親のキーブル主教が眠っているので、墓参りをしたいというのです。彼は続けてこう言いました。
「ああ、なつかしいキーブル! 私は神学上の考え方のせいで、あの人をずいぶん悲しませました。それは私にとってもつらいことでした。けれども、あれほど心を痛めていたのに、あの人は大切な友人らしく、わざわざオックスフォードまで出かけて、私を英詩の教授に選ぶ票を投じてくれたのです」
私たちは連れ立って、静かな教会墓地まで歩きました。キーブルの墓の前で黙って物思いにふけるマシュー・アーノルドの姿は、いつまでも私の心に残りました。そのあと、彼の神学上の考え方が話題になりました。その考えは、いちばん親しい友人たちを悲しませてきたと彼は言いました。
「グラッドストン氏はあるとき、深い失望というか、不快に近い気持ちを口にされて、君は主教になるべきだったのに、と言いました。私の書いたものが出世の妨げになったのも、友人を悲しませたのも間違いありません。でも、どうしようもなかったのです。自分の考えを表さずにはいられなかったのです」
この最後の言葉を口にしたときの悲しげな調子と、そのゆっくりした話しぶりを、私はよく覚えています。心の奥底から出てくるような言葉でした。彼には伝えるべきメッセージがあったのです。時代はそれを受け入れる方向へと着実に進んできました。彼の教えは、今日ではほとんど非難されることなく受け入れられています。真剣に信仰心のある人がいたとすれば、それはマシュー・アーノルドでした。不敬な言葉が彼の口から漏れたことは一度もありません。その点では、彼もグラッドストンも同じように非の打ちどころがありませんでした。それでいて彼は、たった一つの短い文で超自然を葬り去ったのです。「奇跡をめぐる議論は決着した。奇跡は起こらない」
ニューヨークでの初講演
1883年、彼と娘さん(現在のホイットリッジ夫人)は、ニューヨークにいるあいだ私たちの家に滞在し、アレゲーニー山地の山荘にも来てくれました。ですから私は彼とたくさん顔を合わせましたが、それでも十分とは言えませんでした。ニューヨークで彼が初めて公の場に立つ日には、母と私が会場まで馬車でお送りしました。あれほどすばらしい聴衆が集まったことはありません。ところが講演はうまくいきませんでした。原因はひとえに、彼が人前で話すのが得意でなかったことです。声が聞こえなかったのです。家に戻ると、彼はまずこう言いました。
「さて、皆さんのご意見は? 教えてください。私は講演者としてやっていけるでしょうか」
私は彼の成功を強く願っていたので、ためらわずにこう伝えました。人前で話す訓練をしないかぎり、このまま続けるのはとても無理です、話し方の先生について、二つ三つの点を教わるべきです、と。私があまりに強く勧めたので、彼はそうすることに同意しました。みんながひととおり意見を言い終えると、彼は私の母のほうを向いて言いました。
「さて、カーネギー夫人。皆さんは意見を聞かせてくれましたが、アメリカでの講演者としての私の初日について、あなたのお考えをうかがいたいのです」
「牧師さんのようすぎますわ、アーノルドさん、牧師さんのようすぎます」。母はゆっくりと、静かにそう答えました。アーノルド氏はその後もずっと、ときどきこの言葉を持ち出しては、まさに急所を突かれたと思ったと話していました。西部を回る講演旅行を終えてニューヨークに戻ってきたときには、彼の話しぶりは見違えるほど上達していて、その声はブルックリン音楽院(Brooklyn Academy of Music)の会場いっぱいに響きわたりました。勧めたとおり、ボストンで話し方の教授から何回かレッスンを受けたのです。それからはすべて順調でした。
牧師ビーチャーとの対面
彼が有名な説教者のビーチャー氏の説教を聞いてみたいと言うので、ある日曜の朝、私たちはブルックリンへ出かけました。ビーチャー氏には私たちが行くことを前もって知らせてあったので、礼拝のあと、アーノルド氏に会うために残っていてくれました。私がアーノルド氏を紹介すると、ビーチャー氏は温かく迎えました。精神の上では長いことよく知っていた人に、生身の姿で会えてうれしいと言い、彼の手を握ってこう言いました。
「アーノルドさん、あなたがお書きになったもので、私が少なくとも一度は丁寧に読まなかったものはありません。多くは何度も読みました。そしていつも得るところがありました。本当に、いつも得るところがあったのです!」
「おや、それでは、ビーチャーさん」とアーノルドは答えました。「あなたご自身について書いた箇所で、書かないほうがよかったものも目にされたかもしれませんね」
「いやいや、とんでもない。あれこそいちばんためになりましたよ」とビーチャーはにこにこしながら言い、二人は声を上げて笑いました。
ビーチャー氏が言葉に詰まることはありませんでした。マシュー・アーノルドを紹介したあと、私はうれしいことに、インガソル大佐の娘さんも紹介することになり、そのときこう言いました。
「ビーチャーさん、インガソル嬢がキリスト教の教会に来たのは、今日が初めてなんですよ」
彼は両手を差し出して彼女の手を握り、まっすぐ彼女を見つめながら、ゆっくりとこう言いました。
「いやはや、あなたは私がこれまで見た中でいちばん美しい異教徒ですね」。若いころのインガソル嬢を覚えている人なら、ビーチャー氏の言葉にさほど異論はないでしょう。そして彼は続けました。「お父上はお元気ですか、インガソルさん。お元気だといいのですが。お父上とは何度も同じ演壇に並んで立ったものです。いやあ、私たちが同じ側に立っていて、私にとっては幸運でしたよ!」
ビーチャーは本当に、偉大で、心が広く、寛大な人でした。よいものなら、どこで見つけたものでも取り入れました。スペンサーの哲学、健全な良識に裏打ちされたアーノルドの洞察、インガソルが高い政治的目標を揺るぎなく支持したこと。こうしたものはどれも、この共和国にとって善をもたらす力でした。ビーチャー氏は、そうした人たちすべてを評価し、力になってくれる友人として歓迎できるだけの大きな人物でした。
「私たちはみなスノッブなのです」
1887年、アーノルドはスコットランドの私たちのところを訪ねてくれました。ある日、狩猟の話になったとき、彼は、自分は銃猟はしない、翼を持ち澄んだ青空を舞うことのできる生き物を殺すことはできない、と言いました。けれども釣りだけはやめられない、と付け加えました。「釣りに付きものの、あれこれがとても楽しいのです」。ある公爵が年に二、三度、一日釣りをさせてくれるのがどれほどうれしいか、という話もしました。その親切な公爵が誰だったかは忘れてしまいましたが、その人物には何かと芳しくない噂があり、そのことが話に出ました。どうしてそんな人と親しくなったのか、と尋ねられると、彼はこう答えました。
「ああ! 私たちの国では、公爵というのはいつだってひとかどの人物なのです。頭の中身や品行とは関係なく、いつだってひとかどの人物なのです。私たちはみなスノッブ(俗物)なのですよ。何百年もかけてそうなってしまった。みんなスノッブです。どうしようもありません。血の中に流れているのです」
彼はこれを笑いながら言ったので、心の中ではいくらか留保をつけていたのだと思います。彼自身はスノッブではありませんでした。むしろ自然に「家柄の古さを誇る主張をほほえんで受け流す」人でした。もっとも、たいていの場合、その「家柄」そのものは疑いようのないものなのですが。
とはいえ、彼は身分の高い人や富豪には関心がありました。ニューヨークにいたとき、ぜひヴァンダービルト氏に会いたいと言っていたのを覚えています。私は思い切って、ほかの人とたいして変わりはしませんよ、と言ってみました。
「ええ、でも世界一の金持ちと知り合いになるというのは、それだけで意味のあることです」と彼は答えました。「自分の力で富を築いた人は、他人から身分を受け継いだだけの人よりも、たしかに上をいっていますからね」
ある日私は、なぜシェイクスピアについて批評を書き、詩人たちの王座に彼を位置づけることをしなかったのかと尋ねました。そうしようと思ったことはあるが、よく考えてみるといつも、自分にはシェイクスピアについて書く力がない、まして批評する力などない、と納得してしまうのだ、と彼は言いました。それはうまくできるものではないと考えていたのです。シェイクスピアはあらゆるものの上にあり、どんな批評の規則でも測ることはできない。その超越した天才について語りたい気持ちはやまやまだったが、いつもその題材に手をつけることには尻込みしてしまった、というのです。私は、そういうお答えだろうと思っていました、あなたが捧げた賛辞は今でも並ぶものがありませんから、と言い、彼自身のソネットの詩句を暗唱しました。
(ここで原文ではアーノルドのソネット「シェイクスピア」が引用されていますが、省略しました)
ジョシュ・ビリングズとの夕食
私はショー氏(ジョシュ・ビリングズ)と知り合いでした。そこで、「甘美と光明(sweetness and light)」の使徒であるアーノルド氏を、あのダイヤモンドの原石――荒削りではあっても、やはりダイヤモンドである人物――に引き合わせたいと思いました。幸い、ある朝、当時私たちが住んでいたウィンザー・ホテルにジョシュが訪ねてきて、私たちの客人の話をし、あの人を尊敬していると言いました。私はこう答えました。
「今夜、あなたは彼と食事をすることになっています。ご婦人方は出かけるので、アーノルドと私の二人だけで食事をする予定なのです。あなたが加われば三人そろいます」
彼は控えめな人だったので渋りましたが、私は譲りませんでした。どんな言い訳も受けつけません。私の顔を立てるために来てもらわなければならない、と。彼は来てくれました。夕食の席で私は二人のあいだに座り、両極端の出会いを楽しみました。アーノルド氏はショー氏の物の言い方にすっかり引き込まれ、西部の逸話を気に入って、私がそれまで見たこともないほど心から笑っていました。講演者としての経験から、次から次へと話が出てきました。ショー氏は15年にわたり、アメリカ国内の人口1万人以上の町という町で講演をしてきたのです。
アーノルド氏は、講演者がどうやって聴衆の心をつかんでおくのかを聞きたがりました。
「そうですね」と彼は言いました。「あまり長く笑わせ続けてはいけません。そうすると、自分たちが笑われていると思われてしまいます。聴衆を楽しませたあとは、真剣になって、まじめな役回りを演じなければなりません。たとえばこうです。『この世には、誰ひとりとして備えができていないものが二つあります。それが何か、どなたか言ってみてください』。しばらくすると誰かが『死』と叫びます。『では、もう一つは?』。たくさんの人が答えます。富、幸福、力、結婚、税金。最後にジョシュがおごそかに切り出すのです。『皆さん、どなたも二つ目を当てていません。この世で誰ひとり備えができていないものが二つあります。それは双子です』。すると会場が揺れるほどの大笑いになるのです」。アーノルド氏も大笑いしました。
「新しい話をいつも考え出しているのですか」と誰かが尋ねました。
「ええ、いつもです。新しい話を見つけなければ、毎年毎年講演を続けることはできません。それでも、うまくはじけない話もあります。これは絶対にはじけて大受けするはずだと思っていたネタが一つあったのですが、どうやってみても本来の力を発揮してくれませんでした。どうしても欠かせない言葉、たった一つの言葉が見つからなかったからです。ある晩、ミシガン州の奥で、赤々と燃える薪の火の前に座っていたとき、ついにその言葉が浮かびました。これなら鞭のようにぴしっと決まるとわかりました。仲間たちに試してみると、そのとおりでした。私が使ったどの一語よりも長く受けましたよ。話はこう始まります。『今はたいへん批判的な時代です。人はすっかり理解するまで信じようとしません。たとえばヨナと鯨の話です。みんなそのすべてを知りたがる。私の考えでは、ヨナも鯨も、事情をすっかり理解してはいなかったと思うんですがね。それでいて人々は、ヨナが鯨の――鯨の"社交界"で何をしていたのかと聞いてくるのです』」
ある日ショー氏がブロードウェイを歩いていると、根っからの西部の男に呼び止められました。男はこう言いました。
「あなたはジョシュ・ビリングズさんですね」
「まあ、ときどきそう呼ばれることもあります」
「あなたにお渡しする5,000ドルを、この財布に入れて持ってきているんです」
「ちょうどそこにデルモニコ(Delmonico's)がありますから、入って詳しく聞かせてください」
席に着くと、男は、自分はカリフォルニアの金鉱の共同所有者の一人だと話しました。その所有権をめぐって争いが起き、共同所有者たちの話し合いは口論で決裂してしまったというのです。男は、牛の角をつかむ覚悟で(正面から立ち向かって)訴訟を起こしてやると脅して席を立ったのだそうです。「翌朝、私はその会合に出ていって、今朝ジョシュ・ビリングズの暦をめくったら、今日の教訓はこうだった、と言いました。『牛の角をつかむなら、しっぽをつかめ。そのほうがしっかり握れるし、好きなときに手を放せる』。私たちは笑いに笑って、これはもっともな考えだと感じました。あなたの助言に従って和解し、よい友人として別れたんです。誰かが、ジョシュに5,000ドル贈ろうと動議を出しました。私が東部に来ることになっていたので、みんなは私を会計係に任命し、私はそれをお渡しすると約束しました。これがそのお金です」
その晩は、アーノルド氏のこんな言葉でお開きになりました。
「ショーさん、もしイングランドへ講演に来られることがあれば、喜んでお迎えし、最初の聴衆にあなたを紹介しますよ。紹介役なら、卿と呼ばれるどんな愚か者のほうが私よりもあなたの役に立つでしょうが、私はぜひともその役をやりたいのです」
「甘美と光明」の使徒マシュー・アーノルドが、道化の第一人者ジョシュ・ビリングズを、ロンドンの選りすぐりの聴衆に紹介するところを想像してみてください。
その後何年たっても、彼は「われらが獅子のごとき友、ショー氏」の様子を尋ねるのを欠かしませんでした。
あの記念すべき夕食会のあと、ある朝ウィンザー・ホテルでジョシュに会い、ロビーのホールで一緒に腰を下ろすと、彼は小さなメモ帳を取り出してこう言いました。
「アーノルドさんはどこです? これを聞いたら何と言うでしょうね。『センチュリー』誌が週100ドルくれるんです。私は思いついたちょっとしたものを何でも送るという約束でね。何かしら送るようにしています。今週分はズィーキエルおじさんのこの言葉です。『もちろん、批評家は作家よりも偉い。他人の犯した間違いを指摘できるやつは、その間違いを犯したやつよりもはるかに頭がいいに決まっているのだから』」
シカゴの「教養」
私はアーノルド氏に、シカゴの話、というよりシカゴについての話をしました。ボストンの社交界の婦人が、結婚を控えた学友を訪ねてシカゴに行き、下にも置かないもてなしを受けました。ある晩、町の名士から、シカゴで何がいちばん気に入ったかと尋ねられ、彼女は愛想よくこう答えました。
「いちばん驚いたのは、商売のにぎわいでも、物質面での目覚ましい発展でも、立派なお屋敷でもありません。ここで出会った教養と洗練の高さです」。すると即座にこんな返事が返ってきました。
「ええ、ここじゃみんな、教養にくらくらしてますよ。本当に」
アーノルド氏は、シカゴを楽しめるとは思っていませんでした。彼にとってシカゴは、俗物主義(フィリスティニズム)の本拠地という印象だったのです。ところが実際には、思いがけず多くの「教養と洗練」に出会い、驚き、喜んだのでした。出発前、彼はシカゴで何がいちばん面白いだろうかと知りたがりました。私は笑いながら、たぶん最初に案内されるのは、あそこでいちばんすばらしい見物とされている食肉処理場でしょう、と言いました。新しい機械がとても完成されていて、一方の端から追い込まれた豚が、その鳴き声がまだ耳から消えないうちに、もう一方の端からハムになって出てくるのです、と。すると彼は少し間を置いてから、考え込むようにこう尋ねました。
「でも、なぜわざわざ食肉処理場なんかに行かなければならないのです? なぜ豚の鳴き声を聞かなければならないのです?」。私には答えようがなく、話はそこで終わりました。
聖典の「選り分け」
アーノルド氏が旧約聖書の中でいちばん好きだったのは、間違いなくイザヤ書でした。少なくとも、彼が偉大な詩人と呼んだイザヤをたびたび引用していたことから、そう思われました。世界一周の旅をしたとき、私は、ほかの宗教の聖典では、伝説のまわりにどうしても積もってしまったかすが取り除かれていることに気づきました。そして、聖書もそのように扱うべきだとアーノルド氏が言っていたのを思い出しました。世界の人々を喜ばせている孔子などの珠玉の言葉は、たいへん注意深く選び抜かれ、「選集」の形になっています。信者は、無知だった過去が付け足した好ましくないものを突きつけられることがないのです。
この問題について考えれば考えるほど、キリスト教徒も東洋の例にならって、小麦をもみ殻から選り分けなければならないという思いが強くなります。もみ殻よりもたちが悪く、ときにははっきり有害で、毒にさえなるくずもあるのです。バーンズは「小作人の土曜の夜」の中で、善良な家長が夜の祈りのために大きな聖書を取り下ろす様子を描いています。
「彼は思慮深く注意して、一節を選ぶ」
私たちもそうした一節を選び出して、選んだものだけを使うべきです。この点でも、ほかの多くの点でも、私が知り合えたことを心から感謝し、友と呼べることを光栄に思っているこの人は、時代に先んじた真の教師であり、「未来と、その目に見えないもの」の領域における最も偉大な詩人の教師であったことが明らかになりました。
ピッツバーグの階段で
私はアーノルドを、アレゲーニー山地のクレッソンにある夏の家から、黒く煙ったピッツバーグの見物に連れて行きました。エドガー・トムソン製鋼所から鉄道の駅へ向かう道には、線路をまたぐ橋へ上る階段が二つあり、二つ目はかなり急です。四分の三ほど上ったところで、彼は急に立ち止まって息を整えました。手すりにもたれ、胸に手を当てて、私にこう言いました。
「ああ、いつかこれが命取りになるでしょう。父のときと同じように」
そのときは、彼の心臓が弱いことを知りませんでした。けれども私はこの出来事を忘れることはありませんでした。それから間もなく、イングランドで障害物をよけようと無理をしたあとに彼が急死したという悲しい知らせが届いたとき、この場面がよみがえり、私たちの友は自分の運命を予言していたのだと、胸を強く刺される思いがしました。私たちが失ったものは大きなものでした。バーンズがタム・サムソンに寄せた墓碑銘ほど、ふさわしく当てはまる人を、私はほかに知りません。
(ここで原文ではバーンズの詩「タム・サムソンの墓碑銘」が引用されていますが、省略しました)
記念基金とホームズ博士
ここで、ある親愛なる人の名前が浮かんできます。ボストンのオリバー・ウェンデル・ホームズ博士です。誰にとってもかかりつけのお医者さんのような人で、晩年の唯一の持病は80歳であることだけでした。彼は最後まで少年のようでした。マシュー・アーノルドが亡くなったとき、何人かの友人たちは、その思い出にふさわしい記念のものをつくろうと動かずにはいられませんでした。公に寄付を募ることなど考えられなかったので、友人たちはひそかに必要な額を用意しました。そうした基金に寄付できるのは、その資格を持つ人だけに限られました。それは特権だと感じられていたからです。その2倍、3倍の額でも簡単に集まったでしょう。私はうれしいことに、その選ばれた少数の仲間に加わることを許され、大西洋のこちら側で少しばかりお世話をしました。もちろん私は、親愛なるホームズ博士にこの件を話すつもりはまったくありませんでした。博士が選ばれた人の一人でなかったからではありません。作家や専門職の人に、この種の基金へお金を出してくれと頼むべきではないと考えたからです。そうした人のお金は、まれな例外を除けば、自分自身のために使うのがいちばんよいのです。ところがある朝、博士から手紙が届きました。そのような動きがあると耳打ちされ、私の名前もそれに関わっていると聞いた、もし自分がその栄誉ある名簿に名を連ねるにふさわしいと判断してもらえるなら、うれしく思う、と書かれていました。そのことを聞いてからは手紙を書かずにはいられなかった、ぜひ返事がほしい、というのです。博士がふさわしいと考えられたのは言うまでもありません。
これこそ、誰もが望むような記念のかたちです。あえて言えば、この基金に寄付した人で、その機会を与えてくれた親切な運命に感謝しなかった人は一人もいなかったでしょう。
