カーネギー『自伝』全訳(12)事業の交渉
この記事は、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835〜1919年)の自伝『Autobiography of Andrew Carnegie』(没後の1920年に出版)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前に書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。原文にある挿絵(ジョン・ピアポント・モルガンの肖像)は省略しました。
連載の構成(全29回)
- 両親と子ども時代
- ダンファームリンからアメリカへ
- ピッツバーグで働く
- アンダーソン大佐と本
- 電信局
- 鉄道の仕事
- ペンシルベニア鉄道の管区長
- 南北戦争のころ
- 橋の建設
- 製鉄所
- ニューヨークを拠点に
- 事業の交渉(この記事)
- 鋼の時代
- 共同経営者、本、旅
- 馬車の旅と結婚
- 工場と働く人々
- ホームステッド・ストライキ
- 労働の問題
- 「富の福音」
- 教育と年金の基金
- 平和宮とピッテンクリーフ
- マシュー・アーノルドたち
- イギリスの政治家たち
- グラッドストンとモーリー
- ハーバート・スペンサーとその弟子
- ブレインとハリソン
- ワシントンの外交
- ヘイとマッキンリー
- ドイツ皇帝に会う
第12章 事業の交渉
ロンドンでの鉄道債の売り込みと、思わぬ破談
このころ、私はピッツバーグのアレゲニー・バレー鉄道の社長ウィリアム・フィリップス大佐のために交渉を引き受け、見事に成功させました。ある日、大佐がニューヨークの私の事務所にやってきて、どうしてもお金が必要なのだと言いました。ところが、自分の会社の社債500万ドル分を、ペンシルベニア鉄道会社の保証がつくにもかかわらず、買い取ろうと考えてくれる金融業者がアメリカには一つもないというのです。この老紳士は、銀行家たちが自分たちの条件でしか社債を買わないと申し合わせているせいで、あちこちたらい回しにされているのだと確信していました。大佐は額面1ドルにつき90セントの値を求めていましたが、銀行家たちはそれをとんでもなく高いと考えていました。西部の鉄道債が、額面1ドルにつき80セントで銀行家に売られることも珍しくない時代だったのです。
フィリップス大佐は、この苦境から抜け出す方法を何か私に考えてもらえないかと思って来たのだと言いました。大佐はすぐにでも25万ドルが必要だったのですが、ペンシルベニア鉄道のトムソン氏も、それを用立てることはできませんでした。アレゲニーの社債は利率7パーセントでしたが、支払いは金貨ではなく、アメリカの通貨で行われることになっていました。そのため、外国の市場にはまったく向いていませんでした。けれども私は、ペンシルベニア鉄道会社が、フィラデルフィア・アンド・エリー鉄道の利率6パーセントの金貨払い社債を大量に金庫に持っていることを知っていました。自社が保証している利率7パーセントのアレゲニー債と、この社債とを交換することは、ペンシルベニア鉄道にとってもきわめて望ましい取引になるだろう、と私は考えました。
私はトムソン氏に電報を打ち、ペンシルベニア鉄道会社が25万ドルを利付きで借りて、それをアレゲニー鉄道会社に貸してくれないかと尋ねました。トムソン氏の返事は「もちろんだ」でした。フィリップス大佐は大喜びしました。大佐は私の働きへの見返りとして、彼の社債500万ドル分を、望みどおりの額面1ドルにつき90セントで引き受けることのできる60日間の選択権(オプション)を私に与えることに同意しました。私はこの件をトムソン氏に示して交換を提案しました。社債の利息が1パーセント節約できるので、ペンシルベニア鉄道はこの交換に喜んで応じてくれました。私はすぐにロンドンへ向けて船出しました。ペンシルベニア鉄道会社の保証つきの、フィラデルフィア・アンド・エリー鉄道の第一抵当社債500万ドル分を自由にできる立場でした。これは申し分のない証券で、私は高い値をつけたいと考えていました。そしてここで、私の金融人生でも屈指の、当たりと外れの一件が起こったのです。
私はクイーンズタウンからベアリング商会に手紙を書き、貴社ほどの商会でも迷わず検討できるような証券を売りに出したいと伝えました。ロンドンに着くと、ホテルにベアリング商会から訪ねてきてほしいという書き置きが届いていました。翌朝うかがうと、その銀行を出る前に、私は取り決めをまとめてしまいました。ベアリング商会がこの債券を売り出すこと、そして額面で債券を売り切るまでのあいだ、2.5パーセントの手数料を差し引いたうえで、ペンシルベニア鉄道会社に年利5パーセントで400万ドルを前貸しすること、という内容です。この売却で、私には50万ドルを超える純益が残るはずでした。
書類の作成が命じられましたが、私が帰ろうとすると、ラッセル・スタージス氏が、ベアリング氏ご本人が明朝ロンドンに出てくると今しがた知らせがあったのだと言いました。商会では「会議」を開く手はずになっていて、礼儀として取引をベアリング氏にお見せするのが筋だから、書類への署名は翌日まで延ばしたい、2時に来てもらえれば取引は成立する、というのでした。
外に出て、トムソン社長に電報を打とうと電信局へ向かったときに襲ってきた重苦しい気分は、決して忘れられません。何かが、打つべきではないと告げていました。契約書をポケットに入れた明日まで待とう、と私は考えました。私はその銀行からランガム・ホテルまで、たっぷり4マイルを歩いて帰りました。着いてみると、使いの者が息を切らせて待っていて、ベアリング商会からの封をした手紙を私に手渡しました。ビスマルクがマクデブルクに1億ドルを封じ込めた、というのです。金融界は恐慌状態に陥っており、ベアリング商会は、この状況ではベアリング氏にこの件を進めるよう提案することはできない、と申し訳なさそうに書いてきていました。ベアリング商会が合意した取り決めが破られるなどということは、帰り道に私が雷に打たれるのと同じくらいありえないことでした。それなのに、実際に破られたのです。あまりに大きな打撃だったので、いら立ちや憤りのようなものすら湧いてきませんでした。私はすっかりおとなしくあきらめてしまい、ただトムソン氏に電報を打たなかったことを自分でよかったと思っただけでした。
私はベアリング商会には戻らないことに決めました。そして、J・S・モルガン商会が多くのアメリカの証券を売り出していたこともあって、のちにこの債券を、ベアリング商会と合意したよりも下げた値段でモルガン商会に売りました。最初からモルガン商会に行かなかったのは、フィリップス大佐から、この債券はアメリカにあるモルガンの商会に持ち込んで断られたものだと聞いていたからです。ロンドンのモルガン家も、ニューヨークの商会を通じてこの交渉にかかわっていると考えるかもしれない、と思ったのです。しかし、その後の交渉ではいつも、最初の話はジュニアス・S・モルガン氏に持ちかけることにしました。モルガン氏は、私が持ち込んだものを引き受けずに私を帰すことはめったにありませんでした。自分の商会で買えないときには、買ってくれる親しい商会に私を紹介し、自分もその発行に一口乗ってくれました。私が扱った証券で、最後まで額面を上回る値を保たなかったものは一つもありません。このことを思うと、たいへん満足な気持ちになります。もちろん、この件では、ベアリング商会のもとへ戻らなかったのは私の誤りでした。時間を与えて恐慌がおさまるのを待てばよかったのです。実際、恐慌はすぐにおさまりました。取引の一方が興奮しているときには、もう一方は冷静に、辛抱強くしているべきなのです。
モルガン父子との取引
私の金融上の取引にまつわる出来事として、ある日モルガン氏にこう言ったことを覚えています。
「モルガンさん、一つアイデアを差し上げましょう。それを実行して得られる利益の4分の1をいただけるなら、実現のお手伝いもします」
モルガン氏は笑って言いました。「それは公平なようですね。実行するかどうかはこちらが選べるのですから、利益の4分の1をお支払いするのは当然でしょう」
私が指摘したのは、次のようなことでした。私がフィラデルフィア・アンド・エリー鉄道の社債と交換したアレゲニー・バレー鉄道の社債には、ペンシルベニア鉄道会社の保証がついている。そしてあの大会社は、欠かせない路線の延長のために、いつも資金を必要としている。この社債に、会社が売ってもいいと思うような値をつけて買い取りを申し出ることができるだろうし、いまはアメリカの証券への需要がとても大きいようなので、間違いなく売り出せるはずだ。社債を売り出せるような目論見書は私が書こう、と。モルガン氏は例によって慎重に検討したうえで、私の提案に乗ることにしました。
トムソン氏はそのときパリにいたので、私はパリまで会いに行きました。ペンシルベニア鉄道が資金を必要としていることを知っていたので、私はこう伝えました。この証券をモルガン氏に推薦しておいた、値段を示してくれれば売れるかどうかやってみる、と。トムソン氏が示した値は、当時としてはとても高いものでしたが、この社債がその後つけた値よりは低いものでした。モルガン氏は社債の一部を買い取り、残りについても買う権利を得ました。こうして、900万ドルから1000万ドルにのぼるアレゲニー債がすべて市場で売りさばかれ、ペンシルベニア鉄道会社は資金を手にしました。
社債の売却がまだそれほど進まないうちに、1873年の恐慌がやってきました。そのころの私の収入源の一つが、ピアポント・モルガン氏でした。ある日、彼は私にこう言いました。
「父から電報で、あなたが父に出したアイデアの持ち分を売る気はないか、と尋ねてきました」
私は答えました。「ええ、売ります。このご時世ですから、お金になるなら何でも売りますよ」
「では」と彼は言いました。「いくらなら売りますか」
私は、最近受け取った明細書では、私の取り分がすでに5万ドルになっていたと思うので、6万ドルなら売ると言いました。翌朝うかがうと、モルガン氏は7万ドルの小切手を私に手渡しました。
「カーネギーさん」と彼は言いました。「あなたは思い違いをしていましたよ。あなたは、明細書に載っていたあなたの取り分より1万ドル少ない額で売ろうとしたのです。いまの明細書では、あなたの取り分は5万ドルではなく6万ドルになっています。それに1万ドルを足して、7万ドルです」
支払いは2枚の小切手に分かれていて、1枚は6万ドル、もう1枚は上乗せの1万ドルでした。私は1万ドルの小切手を彼に返して、こう言いました。
「いや、あなたらしい見事なふるまいです。この1万ドルは、私の心からの気持ちとして、どうぞ受け取ってください」
「いいえ、ありがとうございます」と彼は言いました。「それはできません」
単なる法律上の権利ではなく、名誉を重んじる細やかな感覚を示すこのような行為は、事情を知らない人が思うほど、実業の世界でまれなものではありません。そして、このことがあってから、私が自分の力の及ぶかぎり、モルガン家の父も子も、その商会も、私のせいで損をすることは決してないようにしようと決めたとしても、不思議はないでしょう。それ以来、彼らにとって私は揺るぎない友人になりました。
大きな事業が、最も厳格な誠実さの上に築かれずに育つことは、まずありません。「抜け目がない」とか、あこぎな取引をするとかいう評判は、大きな事業にとって命取りです。法律の文字面ではなく、その精神こそが守るべきルールでなければなりません。いまでは商業道徳の水準はたいへん高くなっています。誰かが自分の会社に有利になるような間違いをしたら、相手に有利な間違いの場合と同じくらいすばやく訂正されます。商会がずっと成功を続けるためには、単に合法的なことではなく、公正なことに従って動いているという評判を得ることが欠かせません。私たちが採り入れて守り続けたあるルールは、信じられないほど大きな見返りをもたらしてくれました。それは、「疑わしいときは、常に相手に有利に解釈する」というものです。もちろん、これは投機をする人たちには当てはまりません。あの世界には、まったく別の空気が流れています。そこにいるのは賭博師だけです。株のばくちと、名誉ある事業とは両立しません。ただ、近年では、ロンドンのジュニアス・S・モルガン氏のような昔ながらの「銀行家」がめっきり少なくなったことは認めなければなりません。
友人の手形に裏書きしなかった理由
ユニオン・パシフィック鉄道の社長の座を追われてまもなく、スコット氏[注1]はテキサス・パシフィック鉄道の建設に乗り出しました。ある日、彼はニューヨークにいた私に電報を打ってきて、必ずフィラデルフィアで会ってほしいと言ってきました。行ってみると、ほかにも何人かの友人がいて、そのなかにはピッツバーグのペンシルベニア鉄道会社の副社長J・N・マカロー氏もいました。テキサス・パシフィックのための多額の借入金がロンドンで返済期限を迎えていて、モルガン商会は、私がほかの人たちとともにこの借入金に加わることを条件に、借り換えに応じると言っているのでした。私は断りました。すると、友人たちを見捨てて皆を破滅させるつもりか、と問い詰められました。私の生涯でも最もつらい瞬間の一つでした。それでも、この件に自分を巻き込もうという考えには、一瞬たりとも心が動きませんでした。何が自分の義務かという問いがまず先に立ち、それが誘惑を退けてくれたのです。私の資本はすべて製造業に投じられていて、その1ドル残らずが必要でした。私は私たちの事業の出資者でした(当時はまだささやかな出資者でしたが)。すべてが私にかかっていたのです。弟とその妻と子どもたち、フィップス氏とその家族、クローマン氏とその家族。その皆が私の前に立ち上がり、自分たちを守ってくれと訴えているように思えました。
[注1]トーマス・A・スコット大佐は1872年にユニオン・パシフィック鉄道を去りました。同じ年にテキサス・パシフィック鉄道の社長となり、1874年にはペンシルベニア鉄道の社長になりました。
私はスコット氏に言いました。必要な資本を確保しないうちに大鉄道の建設を始めるのは止めようと、私はできるかぎりのことをしてきた。何千マイルもの鉄道路線を一時的な借入金で建設することはできない、と私は強く言ってきた。それに私は、この計画に賛成したことは一度もなかったけれども、私がヨーロッパから戻ったときに、あなたが私のために取っておいたと言ってくれた持ち分に、現金で25万ドルを払っている。しかし、あの建設会社の手形であれ、自分たちの会社以外のどんな事業の手形であれ、それに裏書きするような真似は、世の中の何をもってしても私にさせることはできない、と。
モルガンからの借入金を60日で返すことはもちろん、私の負担分を払うことさえ私には不可能だとわかっていました。そのうえ、考えなければならないのは、この借入金だけではなく、その後に必要になるであろう五つも六つもの借入金のほうでした。この一件は、スコット氏と私とのあいだにいずれ来ることになった、事業上の完全な決別への、また一歩となりました。それは、私がそれまでに経験したどんな金融上の試練よりもつらいものでした。
この会合からほどなくして破局が訪れ、国じゅうが、最も強いと思われていた人たちの破綻に驚きました。スコット氏が早くに亡くなった[注2]のは、彼が耐えなければならなかった屈辱がいくらかは原因になったのではないかと、私は思っています。彼は誇り高いというより、繊細な人でした。そして、破綻が目前に迫っているように見えたことは、彼の心を深く傷つけたのです。この事業の共同出資者だったマクマナス氏とベアード氏も、まもなく世を去りました。この二人は私と同じ製造業者で、鉄道の建設に手を出せるような立場にはありませんでした。
[注2]1881年5月21日に亡くなりました。
実業家がその生涯で出会う暗礁のなかで、この商業手形への裏書きほど危険なものはありません。しかし、次の二つの問いを自分に向ければ、これはたやすく避けられます。第一に、この裏書きによって負うかもしれない最大の金額を、困ることなく支払えるだけの、あらゆる事態に備えた余裕資金を持っているか。第二に、裏書きをしてあげる友人のために、この金額を失ってもよいと思っているか。この二つの問いにどちらも「はい」と答えられるなら、友人の頼みを聞いてもかまわないでしょう。けれども、賢い人であれば、そうでない場合には引き受けるべきではありません。そして、最初の問いに「はい」と答えられるなら、名前を貸してくれと頼まれている金額をその場で全額払ってしまったほうがよいのではないか、よく考えてみるとよいでしょう。きっとそのほうがよいはずだと私は確信しています。借金や債務があるかぎり、その人の財産は、自分の債権者のために神聖に預かっている信託財産なのです。
私がモルガンの借り換えへの裏書きを断ったにもかかわらず、一行は相談のため、翌朝ニューヨークへ向かう特別車両に同行してほしいと私を誘いました。私は喜んでそうしました。アンソニー・ドレクセル氏も呼ばれて一緒に来ました。道中、マカロー氏が、車内を見回してみたが、分別のある人間は一人しかいないという結論に達した、残りは皆「ばか者」だった、と言いました。「アンディ」は自分の持ち分の代金を払っていて、1ドルの借りもなく、この件には何の責任も負っていない。皆がそういう立場にいるべきだったのだ、というのです。
ドレクセル氏は、こうした不運なごたごたをどうやって避けることができたのか説明してほしい、と私に言いました。私はこう答えました。満期に支払えないとわかっているものには、決して自分の名前を記さない。それが自分の義務だと信じ、厳格に守ってきたからです。あるいは、西部の友人がよく口にする言い回しを借りれば、歩いて渡れないところには決して足を踏み入れない、ということです。この水は、私にはあまりにも深すぎました。
このルールを守ってきたおかげで、私だけでなく共同経営者たちも、面倒に巻き込まれずにすみました。実際、私たちは共同経営の契約のなかで、会社のため以外には、ごくわずかな額を超えて裏書きをしたり、何らかの形で責任を負ったりすることを禁じるところまで踏み込んでいました。私は、裏書きができない理由として、このこともあげました。
よい卵はすべて一つのかごに
こうした出来事があった時期に、私はさまざまな証券の交渉のために何度もヨーロッパへ渡り、全部で3000万ドルほどを売りました。当時はまだ大西洋横断ケーブルによってニューヨークが金融の面でロンドンと一体になる前のことで、ロンドンの銀行家たちは、アメリカにより高い利率で貸すよりも、ほんのわずかな利率の差でパリやウィーンやベルリンに余剰資金を貸していました。この善良な人たちにとっては、アメリカ共和国はヨーロッパ大陸よりも安全ではないと考えられていたのです。弟とフィップス氏が鉄の事業をたいへんうまく切り盛りしてくれたので、私は何週間も続けて、心配せずに留守にすることができました。私が製造業から離れて、金融業や銀行業のほうへ流れていってしまう危険もありました。外国での成功によって心をそそられる機会が次々に舞い込みましたが、私はいつも製造業のほうが好きでした。私は形のあるものを作って売りたかったのです。そして、利益はピッツバーグの工場の拡張に投じ続けました。
もともとキーストン・ブリッジ社のために建てた小さな作業場はほかの用途に貸し出し、ローレンスビルに10エーカーの土地を確保して、そこに新しく大規模な作業場を建てました。ユニオン製鉄所は増設を重ねて、あらゆる種類の構造用鋼材でアメリカ随一の工場になっていました。事業の見通しは明るく、私がほかの分野であげていた余剰利益はすべて、鉄の事業を広げるために必要になりました。私はペンシルベニア鉄道会社の友人たちと一緒に西部の諸州でいくつかの鉄道を建設することにかかわっていましたが、そうした事業からはすべて少しずつ手を引き、「卵を一つのかごに盛るな」という格言とはまったく逆のやり方をしようと心に決めました。正しい方針は、「よい卵はすべて一つのかごに入れ、そしてそのかごを見張る」ことだと決めたのです。
どんな分野であれ、抜きん出た成功への本当の道は、その分野の第一人者になることだと私は信じています。資源をあちこちに分散させる方針を、私はまったく信用していません。私の経験では、金もうけで抜きん出た人で、いくつもの事業に手を出していた人には、めったに、あるいはまったく出会ったことがありません。製造業ではまず間違いなく一人もいません。成功した人たちは、一つの分野を選んでそれに打ち込んだ人たちです。自分自身の事業に投資することで得られる莫大な配当を理解している人が、どれほど少ないかには驚かされます。捨てて改良した設備に取り替えるべき機械を工場に抱えていない製造業者は、世界じゅうにほとんどいません。あるいは、機械が足りなかったり、新しい方法を採り入れていなかったりするせいで、自分の領分の外に投資して得られる最大の配当を払ってもなお余るほどの損をしている製造業者も、たくさんいます。それなのに、私の知る実業家の多くは、銀行の株や遠く離れた事業に投資しています。本当の金鉱は、自分の工場のなかにあるというのに。
私はいつも、この重要な事実をしっかり守ろうとしてきました。私は自分の資本を、ほかの誰よりも、どんな取締役会よりもずっとうまく運用できる。これが私の根本の信条でした。人が事業人生のなかで出会い、ひどく困ることになる損失は、自分自身の事業で生じることはめったになく、投資する本人が自分で仕切っていない事業で生じるものです。若い人たちへの私の助言は、一生の仕事として携わる一つの事業に、自分の時間と注意のすべてを集中するだけでなく、自分の資本の1ドル残らずをそれに注ぎ込みなさい、というものです。もし、これ以上広げられない事業であるなら、ほかに成長している事業が見つからない場合、正しい方針は、控えめでも確実な収入をもたらす一流の証券に余剰資金を投資することです。私自身について言えば、決断は早くから下していました。鉄と鋼の製造に集中し、その分野の第一人者になろう、と。
イギリスを訪れるたびに、鉄鋼業の有力者たちと旧交を温めたり、新しく知り合いになったりする絶好の機会を得ました。筆頭のベッセマーをはじめ、ロージアン・ベル卿、バーナード・サミュエルソン卿、ウィンザー・リチャーズ卿、エドワード・マーティン、ビングリー、エバンズなど、この業界を率いる大勢の人たちです。まもなく私はイギリス鉄鋼協会(British Iron and Steel Institute)の評議員に選ばれ、ついには会長に選ばれました。英国民でない会長は私が初めてでした。この栄誉はたいへんありがたいものでしたが、最初は辞退しました。アメリカに住んでいるので、その務めに十分な時間を割けないのではないかと心配したからです。
ルーシー溶鉱炉
橋やその他の構造物を造るために、私たちは錬鉄の製造に乗り出さざるをえませんでしたが、それと同じように、今度は銑鉄も自分たちで作るのが望ましいと考えました。こうして1870年に、ルーシー溶鉱炉を建設することになりました。その規模の大きさを十分にわかっていたら、延期していたであろう事業でした。私たちの若い会社が急速に成長し、手を広げていくことについて、製造業の年長の同業者たちが不吉な予言をしているのを、ときおり耳にしました。けれども、私たちはひるみませんでした。溶鉱炉を一基建てるのに十分な資本と信用はあると考えていたのです。
しかし、建設費の見積もりは、実際にかかった費用の半分にも届きませんでした。私たちにとっては実験でした。クローマン氏は溶鉱炉の操業については何も知りませんでした。それでも、正確な知識がないわりには、大きな失敗はありませんでした。ルーシー溶鉱炉(私の聡明な義妹の名にちなんで名づけました)の生産高は、私たちの最も楽観的な予想をも上回りました。一基の溶鉱炉で1日100トンという、当時としては前例のない生産が1週間続いたのです。世界でそれまで聞いたこともない生産高でした。私たちはその記録を保持し、大勢の見物客がこの驚異に驚嘆しにやってきました。
とはいえ、私たちの鉄の事業も、すべてが順風満帆だったわけではありません。恐慌の年が、ときおりやってきました。戦後の値崩れで、鉄が1ポンド9セントから3セントに下がったときも、私たちは無事に乗り切りました。多くの会社が倒れ、私たちの財務担当者は、急場をしのぐための資金を用意するのにかかりきりでした。数多くの会社が沈んでいくなかで、私たちの会社は信用を損なうことなく立っていました。けれども、銑鉄の製造は、それまでのどの部門よりも私たちを悩ませました。この部門で私たちが受けた最大の助けは、イギリスの有名なホイットウェル兄弟商会のホイットウェル氏によるものでした。この商会の溶鉱炉用の熱風炉は、広く使われていました。ホイットウェル氏は、ルーシー溶鉱炉に驚嘆しにやってきた見物客のなかでも最もよく知られた一人でした。私は、当時抱えていた問題を彼に説明しました。彼はすぐにこう言いました。
「それは、ベルの角度が間違っているからですよ」
彼は、どう変えればよいかを説明してくれました。私たちのクローマン氏はなかなか信じようとしませんでしたが、私は、ガラスで小さな溶鉱炉の模型を作り、ベルを二つ用意するよう勧めました。一つはルーシーのとおりのもの、もう一つはホイットウェル氏の助言どおりのものです。そのとおりにして、私が次に訪れたときにそれぞれで実験してみると、結果はホイットウェル氏が予言したとおりでした。私たちのベルは、大きな塊を炉の側面へ振り分けてしまい、中央に密な塊を残すので、そこには送風が一部しか通りませんでした。ホイットウェル式のベルは、塊を中央へ投げ入れ、周囲のほうを密にしました。これで、何もかもがまるで違ってきました。ルーシーの悩みは解消したのです。
ホイットウェル氏は、なんと親切で、器が大きく、心の広い人だったことでしょう。狭いねたみもなく、自分の知識を出し惜しみすることもありませんでした。私たちもいくつかの部門では新しいことを学んでいたので、お返しに彼の会社の役に立つことができました。いずれにせよ、それ以来、私たちが持っているものはすべてホイットウェル家に公開されました。[これを書いている今日、兄弟のうち一人がまだ健在で、私たちの友情がいまも温かいままであることを、私はうれしく思います。彼は、イギリス鉄鋼協会の会長として私の前任者でした。]
