カーネギー『自伝』全訳(11)ニューヨークを拠点に
この記事は、鉄鋼王アンドリュー・カーネギー(1835〜1919年)の自伝『Autobiography of Andrew Carnegie』(没後の1920年に出版)を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg で公開されています。100年以上前に書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。原文にある挿絵の説明文(ジュニアス・スペンサー・モルガンの肖像)は省きました。
連載の構成(全29回)
- 両親と子ども時代
- ダンファームリンからアメリカへ
- ピッツバーグで働く
- アンダーソン大佐と本
- 電信局
- 鉄道の仕事
- ペンシルベニア鉄道の管区長
- 南北戦争のころ
- 橋の建設
- 製鉄所
- ニューヨークを拠点に(この記事)
- 事業の交渉
- 鋼の時代
- 共同経営者、本、旅
- 馬車の旅と結婚
- 工場と働く人々
- ホームステッド・ストライキ
- 労働の問題
- 「富の福音」
- 教育と年金の基金
- 平和宮とピッテンクリーフ
- マシュー・アーノルドたち
- イギリスの政治家たち
- グラッドストンとモーリー
- ハーバート・スペンサーとその弟子
- ブレインとハリソン
- ワシントンの外交
- ヘイとマッキンリー
- ドイツ皇帝に会う
ニューヨークへの移住
私たちの事業は拡大を続け、私は東部、とりわけニューヨークへたびたび出向かなければならなくなりました。ニューヨークはイギリスにとってのロンドンのようなもので、アメリカで本当に重要な事業はすべてここに本拠を置いています。大きな会社は、ここに拠点を持たずにやっていくのは難しいのです。ピッツバーグでの事業は、弟とフィップス氏がしっかりと掌握していました。私の役割は、各社の全体的な方針を指揮し、重要な契約を取りまとめることだと思われました。
弟は幸運にも、私たちにとってとりわけ大切な共同経営者であり友人でもあった人の娘、ルーシー・コールマン嬢と結婚していました。ホームウッドにあった一家の家は弟に譲られ、私はまたしても古いつながりを断ち切ってピッツバーグを離れ、1867年にニューヨークへ移り住むことになりました。この変化は私にとってもつらいものでしたが、母にとってははるかにつらいものでした。それでも母はまだ働き盛りで、私たちは一緒にいさえすれば、どこででも幸せに暮らせました。とはいえ、母はわが家を離れることを本当にさびしく感じていました。ニューヨークでは私たちはまったくのよそ者で、はじめは当時全盛を誇っていたセント・ニコラス・ホテルに住まいを構えました。私はブロード街に事務所を開きました。
しばらくのあいだは、ニューヨークに来てくれるピッツバーグの友人たちが私たちのいちばんの楽しみで、ピッツバーグの新聞は暮らしに欠かせないもののように思えました。私はたびたびピッツバーグを訪れ、母もよく一緒に来たので、ふるさととのつながりはなお保たれていました。しかし、やがて新しい友人ができ、新しい関心も芽生えて、ニューヨークをわが家と呼ぶようになりました。セント・ニコラスの経営者たちが山の手にウィンザー・ホテルを開くと、私たちはそこに住まいを移し、1887年まではそこがニューヨークでのわが家でした。経営者のホーク氏は私たちの大切な友人の一人になり、彼の甥で同じ名前の人とは、いまも親しくしています。
ニューヨークで私が大いに恩恵を受けた、学びの場となったもののうち、コートランド・パーマー夫妻が組織した「19世紀クラブ」に勝るものはありません。このクラブは月に1度、夫妻の家に集まってさまざまな話題について議論し、まもなく多くの有能な男女を引きつけるようになりました。私が会員に選ばれたのは、ボッタ夫人のおかげでした。ボッタ教授の奥さまで、すばらしい女性でした。彼女の客間は、市内のどこよりもサロンらしい場所になっていました。いえ、当時サロンに似たものといえば、そこしかなかったかもしれません。ある日、私は光栄にもボッタ家の夕食に招かれ、そこで何人もの著名な人々に初めて会いました。その中に、私の生涯の友となり、賢明な助言者となってくれたアンドリュー・D・ホワイトがいました。当時はコーネル大学の学長で、のちにロシア大使、ドイツ大使を務め、ハーグ会議ではアメリカの首席代表となった人です。
この19世紀クラブは、まさに論戦の場でした。有能な男女が、当時の主要な問題について、きちんとした形式にのっとって、代わるがわる聴衆に向かって論じたのです。集まりはまもなく個人の家の部屋には収まりきらないほど大きくなり、月例会はアメリカン・アート・ギャラリーで開かれるようになりました。私が初めて講演者の一人として参加した晩のことを覚えています。テーマは「ドルの貴族政治」でした。最初の講演者はトーマス・ウェントワース・ヒギンソン大佐でした。これが、私がニューヨークの聴衆の前に立った最初の機会です。その後も私はときどき講演しました。登壇するたびに本を読み、勉強しなければならなかったので、これはすばらしい訓練になりました。
投機には手を出さない
私はピッツバーグで長く暮らすうちに、投機の精神とは区別される、ものづくりの精神を身につけていました。電信技手として働いていたおかげで世の中の事情に通じていたので、当時ニューヨーク証券取引所で取引をしていたピッツバーグの数少ない人や会社のことを知っていて、彼らの歩みを深い関心をもって見守っていました。私には、彼らのやっていることは単なるばくちの一種に思えました。当時の私は知りませんでしたが、こうした人や会社はみな、投機にふけっているということが知られてしまい(それを隠すのはほとんど不可能です)、そのために信用をひどく損なっていたのです。とはいえ、そういう会社は当時ごくわずかで、片手の指で数えられるほどでした。ピッツバーグにはまだ石油取引所も証券取引所もなく、東部の証券取引所と電信線でつながった仲買人の事務所も必要ありませんでした。ピッツバーグは、まぎれもなくものづくりの町だったのです。
ニューヨークでは、事情がまるで違っていることに驚きました。実業家の中でさえ、多かれ少なかれウォール街で投機をしていない人はほとんどいませんでした。私は、自分が関わっているさまざまな鉄道事業について、あちこちから質問攻めにあいました。投資のための資本を出すから運用を任せたい、という申し出をしてくる人たちもいました。私は内部の事情を知ることができる立場にいるので、自分たちのためにうまく投資してくれるだろう、というわけです。ある資産の支配権をひそかに買い占めようとしているグループから、仲間に加わらないかと誘われたこともあります。要するに、投機の世界全体が、いかにも誘惑的な姿で私の前に広げられていたのです。
私はこうした誘いをすべて断りました。この種の申し出でいちばん印象に残っているのは、ニューヨークに移ってまもないある朝、ウィンザー・ホテルでのことです。当時まさに絶頂期にあったジェイ・グールドが近づいてきて、あなたの噂は聞いている、と言いました。そして、もしあなたがその経営に専念することに同意してくれるなら、自分がペンシルベニア鉄道会社の支配権を買い取り、利益の半分をあなたに渡そう、と言うのです。私は礼を述べたうえで、スコット氏とは仕事のうえでは袂を分かったけれども、彼に対して手を上げるようなことは決してしない、と答えました。その後、スコット氏から、ニューヨークの勢力があなたを私の後任に選んだと聞いた、と言われました。私はだれにもこの話をしていなかったので、彼がどうやってそれを知ったのかはわかりません。私は、自分が社長になる鉄道会社があるとすれば、それは自分が所有する会社だけです、と言って、彼を安心させることができました。
時の移り変わりとは不思議なものです。それから30年ほどたった1900年のある朝、私はグールド氏の息子に、彼の父親が申し出たことを話し、こう言う巡り合わせになりました。
「あなたのお父さんは、あの大ペンシルベニア鉄道網の支配権を私に申し出てくれました。今度は私がお返しに、その息子さんに、大洋から大洋へと結ぶ国際路線の支配権を申し出ましょう」
息子と私は、最初の一歩について合意しました。彼のウォバッシュ鉄道をピッツバーグまで引き込むことです。わが鉄鋼会社の輸送量の3分の1をウォバッシュ鉄道に任せるという契約のもとで、これはうまく実現しました。私たちがピッツバーグから大西洋岸へ路線を東に延ばす計画に取りかかろうとしていた矢先、1901年3月に、モルガン氏がシュワブ氏を通じて私に接触し、本当に事業から引退したいのか、と尋ねてきました。私がそうだと答えたことで、私たちの鉄道事業は終わりになりました。
私は生涯で一度も、投機目的で株を売り買いしたことはありません。例外は、若いころに投資のために買ったペンシルベニア鉄道の株の小口だけです。そのときは、銀行家たちが低い利率で立て替えておこうと言ってくれたので、代金をその場では払いませんでした。私は、代金を払っていないものは決して買わない、自分が持っていないものは決して売らない、というルールを守ってきました。とはいえ、若いころには、事業の成り行きで引き受けることになった持ち分がいくつかありました。その中にはニューヨーク証券取引所で相場のつく株や証券も含まれていて、朝、新聞を開くと、まず株式市場の相場を見たくなってしまう自分に気づきました。私は、外部の会社の持ち分はすべて売り払い、ピッツバーグでのものづくりの事業に注意を集中しようと決めていたので、さらに、どこの証券取引所で売買される株も持たないことにしようと決意しました。さまざまな経緯で手元に来たわずかな額を別にすれば、私はこのルールを厳格に守ってきました。
こうしたやり方は、製造業に携わるすべての人、そしてすべての専門職の人に勧められるべきものです。とりわけ製造業の人にとっては、このルールは何より大切だと思います。次々に目の前に現れる問題を賢明に判断するには、心を落ち着いた自由な状態に保っておかなければなりません。長い目で見て、すぐれた判断力ほどものを言うものはありません。そして、証券取引所の気まぐれな値動きに心を乱されている人には、健全な判断力は保てません。それは人を、酒に酔ったのと同じような状態にしてしまいます。ないものが見え、見えているものがないのです。物事の相対的な価値を判断することも、物事を正しい遠近感でとらえることもできなくなります。モグラ塚が山に見え、山がモグラ塚に見えて、理性によってたどり着くべき結論に一足飛びに飛びついてしまいます。心は株価に向いていて、落ち着いて考えるべき点には向いていないのです。投機とは、価値を食いものにする寄生虫であって、価値を何ひとつ生み出しません。
キーオカックの橋と、ロンドンでの債券販売
ニューヨークに落ち着いてから最初の重要な事業は、キーオカックでミシシッピ川に橋を架ける仕事を引き受けたことでした[注29]。ペンシルベニア鉄道のトムソン社長と私は、基礎、石積み、上部構造を含む構造物全体を請け負い、代金は債券と株式で受け取ることにしました。この事業は、財務面を除けば、あらゆる点ですばらしい成功でした。恐慌が起きて、接続する鉄道会社が破産してしまったのです。彼らは約束した金額を払うことができませんでした。競合する鉄道網が、バーリントンでミシシッピ川に橋を架け、ミシシッピ川の西岸をキーオカックまで下る鉄道を敷きました。私たちが見込んでいたたっぷりの利益は、ついに実現しませんでした。それでもトムソン氏と私は、残った利ざやはわずかだったものの、損を出さずにすみました。
[注29:長さ2,300フィート、径間380フィートの鉄橋だった。]
この橋の上部構造は、ピッツバーグのキーストーン工場でつくられました。この仕事のために、私はときどきキーオカックを訪れなければならず、そこで賢くて感じのいい人たちと知り合いました。その中には、リード将軍夫妻やレイトン夫妻もいました。のちにイギリスの友人たちを連れてキーオカックを訪れたとき、彼らにとってはまさに文明の最果てと思われた極西部の社交界から、彼らが受けた印象は驚くべきものでした。ある晩、リード将軍が私たちのために開いてくれた歓迎会には、イギリスのどんな町に出しても恥ずかしくない顔ぶれがそろっていました。客の中には、南北戦争で功を立て、国政の場で頭角を現した人が一人ならずいたのです。
キーオカックの橋の建設で得た評判がきっかけで、前にも触れた、セントルイスでミシシッピ川に橋を架ける計画の責任者たちから、私に声がかかりました。これが、私の最初の大きな金融取引につながりました。1869年のある日、この事業の責任者であるマクファーソン氏(彼は根っからのスコットランド人でした)がニューヨークの私の事務所を訪ねてきて、橋を建設するための資本を集めようとしているところだ、と言いました。東部の鉄道会社のどこかをこの計画に引き込めないだろうか、というのです。計画を慎重に検討したうえで、私はキーストーン・ブリッジ社として橋の建設を請け負う契約を結びました。また、橋梁会社の第一抵当債400万ドル分の買い取り権も手に入れ、その販売交渉のために1869年3月、ロンドンへ向けて出発しました。
航海のあいだに私は目論見書を書き上げ、ロンドンに着くとそれを印刷しました。前回の訪問で大銀行家のジュニアス・S・モルガンと知り合っていたので、ある朝彼を訪ねて交渉を始めました。目論見書を1部置いて帰り、翌日訪ねると、うれしいことにモルガン氏はこの件に好意的でした。私は彼に債券の一部を売り、残りを引き受ける選択権もつけました。ところが、彼の弁護士たちに意見を求めたところ、債券の文言について20か所もの変更が必要だということになりました。モルガン氏は私に、スコットランドへ行くのなら今のうちに行ってきたほうがいい、そのあいだにセントルイスの関係者に手紙を書いて、提案された変更に同意するかどうか確かめればいい、と言いました。3週間後に戻ってから話をまとめても十分間に合うだろう、というのです。
しかし私は、魚をそんなに長く泳がせておくつもりはありませんでした。そこで、明日の朝には、すべての変更に同意するという電報を受け取れるでしょう、と彼に伝えました。大西洋横断ケーブルはしばらく前から開通していましたが、私がその日に送ったほど長い私信がそれまでに送られたことがあったかどうかは疑わしいところです。やり方は簡単でした。債券の文面の各行に番号を振り、それを1行ずつ丹念に見ていって、どの行にどんな変更、削除、追加が必要かを書けばよいのです。送る前にその電文をモルガン氏に見せると、彼はこう言いました。
「いやはや、若いの、それがうまくいったら、君は赤丸ものだよ」
翌朝事務所に入ると、モルガン氏の私室で私が使わせてもらっていた机の上に、返事の入った色つきの封筒が置いてありました。そこにはこうありました。「昨夜取締役会開催。変更はすべて承認」。「さて、モルガンさん」と私は言いました。「債券はそちらの弁護士の方々が望むとおりのものになったということで、話を進められますね」。書類はすぐに取り交わされました。
私がその事務所にいたとき、『タイムズ』紙の金融担当編集者であるサンプソン氏がやって来ました。彼がひとこと書いてくれれば取引所での債券の値がぐっと上がることをよく知っていたので、私は彼と話をしました。そのころアメリカの証券は、エリー鉄道会社をめぐるフィスクとグールドのやり口や、彼らがニューヨークの判事たちを意のままに操っているように見えることのせいで、激しく叩かれていました。そのことが反対の理由として持ち出されるのはわかっていたので、私は先回りしてそれに答えました。セントルイス橋梁会社の設立認可は連邦政府から出されたものだという点に、サンプソン氏の注意を向けたのです。必要とあれば、合衆国最高裁判所に直接訴えることができます。これはイギリスの最高の法廷にも引けをとらない機関です。サンプソン氏は、この評価すべき特徴を喜んで大きく取り上げましょう、と言いました。私がこの橋を「大陸を貫く幹線道路の料金所」と表現すると、彼はそれが気に入ったようでした。すべてが順風満帆でした。彼が事務所を出て行くと、モルガン氏は私の肩をたたいて言いました。
「ありがとう、若いの。今朝は君のおかげで、あの債券の値が5パーセント上がったよ」
「どういたしまして、モルガンさん」と私は答えました。「では、あなたのためにあと5パーセント上げるにはどうしたらいいか、教えてください」
債券の発行は大成功で、セントルイス橋の資金は調達できました。私はこの交渉で、かなりの利益を得ました。これが、ヨーロッパの銀行家たちとの私の最初の金融交渉でした。数日後、プルマン氏から聞いたところでは、モルガン氏はある晩餐会で電報の一件を話し、「あの若者はいずれ名を上げるだろう」と予言したそうです。
故郷への最初の寄付と、33歳のメモ
モルガン氏との取引をまとめたあと、私は生まれ故郷のダンファームリンを訪れ、そのとき町に公衆浴場を寄贈しました。これが特筆に値するのは、主として、それが私にとって初めてのまとまった寄付だったからです。それよりずっと前、私はローダーおじさんの勧めで、バノックバーンを見下ろすスターリングの丘に建てるウォレス記念塔の基金に寄付金を送ったことがありました。たいした額ではありませんでしたが、当時私はまだ電信局で働いていて、月30ドルの収入で家計のやりくりに追われていたので、それはかなりの額でした。母はそれを惜しみませんでした。それどころか、息子の名前が寄付者の名簿に載っているのを見て、とても誇らしく思っていました。そして息子のほうも、自分もいよいよ一人前の男らしくなってきたと感じていたのです。何年もたってから、母と私はスターリングを訪れ、ウォレス記念塔で、母が記念塔委員会に寄贈したサー・ウォルター・スコットの胸像の除幕式を行いました。そのころには、あの最初の寄付のときから、少なくとも金銭面では、私たちは大きく前進していました。しかし、財産の分配はまだ始まっていませんでした[注30]。それまでの私にとっては、蓄積の時代だったのです。
[注30:このころ(1868年)のカーネギー氏の抱負は、本人が書き残した次のメモに示されている。このメモが見つかったのは、ごく最近のことである。
ニューヨーク、セント・ニコラス・ホテルにて、1868年12月
33歳で、年収5万ドル! 今から2年のうちに、少なくとも年5万ドルの収入を確保できるよう、すべての事業を整理することができる。それ以上は決して稼がない。財産を増やす努力は一切せず、毎年の余剰は慈善の目的に使う。他人のためを除いて、事業からは永久に手を引く。
オックスフォードに住んで徹底した教育を受け、文筆家たちと知り合いになる。これには3年間の精力的な努力が必要だろう。人前で話すことにはとくに力を入れる。その後はロンドンに住み、どこかの新聞か活気のある評論誌の支配的な持ち分を買い取って、その全体の経営に目を配り、公共の問題、とりわけ教育や貧しい人々の向上に関わる問題に参加する。
人は偶像を持たずにはいられない。富の蓄積は、偶像崇拝の中でも最悪の部類のひとつである。金銭の崇拝ほど人を堕落させる偶像はない。私は何に取り組むにしても、それを度を越して推し進めずにはいられない性分だ。だからこそ、その性質上もっとも人を高めるような生き方を、注意深く選ばなければならない。これ以上長く事業の心配ごとに押しつぶされ、どうすれば最短の時間でもっと多くの金を稼げるかということばかりを考え続けていれば、きっと二度と立ち直れないほど堕落してしまうだろう。私は35歳で事業から身を引く。しかし、それまでの2年間は、午後を使って教えを受け、体系的に読書をしたい。]
プルマンとの寝台車事業
1867年にヨーロッパ大陸を訪れ、見るものに深く心を奪われていたからといって、私の心が国内の事業から離れていたと思われては困ります。たびたび届く手紙で、事業のことは把握していました。太平洋岸への鉄道をどうするかという問題は、南北戦争によって前面に押し出され、議会は路線の建設を奨励する法律を通していました。ちょうどオマハで起工式が行われたところで、路線は最終的にサンフランシスコまで延ばされる予定でした。ローマにいたある日、私はふと、これは当時予想されていたよりもずっと早く実現するかもしれない、と思いつきました。国土をひとつに結ばなければならないと決意した国民なら、それを一刻も無駄にせず成し遂げようとするはずだ、と信じてよかったのです。私は友人のスコット氏に手紙を書き、この大カリフォルニア路線に寝台車を走らせる契約を取ろうではないか、と提案しました。彼の返事には、こんな言葉がありました。
「いやはや、若いの、君はずいぶん先回りするね」
それでも、アメリカに戻ってから、私はこの考えを追いかけました。私が関わっていた寝台車事業はあまりに急速に伸びていたので、需要に応えるだけの車両をそろえることができませんでした。まさにこのことが、現在のプルマン社の誕生につながったのです。セントラル・トランスポーテーション社には、十分な速さで各地をカバーすることがどうしてもできませんでした。一方、プルマン氏は世界最大の鉄道の中心地であるシカゴから始めて、まもなく本家の会社に肩を並べるまでになりました。彼もまた、太平洋鉄道が世界屈指の寝台車路線になることを見抜いていて、私が狙っていたものを手に入れようと動いていることがわかりました。彼はまさに、行く手に立ちはだかるライオンでした。ここでもまた、プルマン氏本人から聞いたある出来事から、重要なことがときにどれほどささいなことで決まるのかを学ぶことができます。
ユニオン・パシフィック鉄道の社長がシカゴを通りかかったときのことです。プルマン氏は社長を訪ね、部屋に通されました。テーブルの上には、スコット氏あての電報が置いてあり、「寝台車についての貴殿の提案を受諾する」と書かれていました。プルマン氏は、目をそらす間もなく、思わずそれを読んでしまいました。置いてある場所からして、目に入らないわけにはいかなかったのです。デュラント社長が部屋に入ってくると、プルマン氏はそのことを説明し、こう言いました。
「私からも提案をさせていただくまで、この件を決めないでいただけるとありがたいのですが」
デュラント氏は待つと約束しました。その後まもなく、ユニオン・パシフィック社の取締役会がニューヨークで開かれました。プルマン氏と私はどちらも出席し、お互いにけっして軽んじてはいないその賞品を手に入れようと争っていました。ある晩、私たちはたまたま同時に、セント・ニコラス・ホテルの広い階段を上りはじめました。以前に会ったことはありましたが、よく知っている間柄ではありませんでした。それでも私は、階段を上りながらこう言いました。
「こんばんは、プルマンさん! こうして2人そろっているわけですが、私たちはそろって、とんだ馬鹿を演じているとは思いませんか?」彼は何ひとつ認める気はないようで、こう言いました。
「どういう意味です?」
私は状況を説明しました。張り合って提案を出し合うことで、私たちは、手に入れたいと思っているまさにその利点を、自分たちで台無しにしているのです。
「なるほど」と彼は言いました。「では、どうしようと言うのです?」
「手を組むのです」と私は言いました。「あなたの側と私の側とで、ユニオン・パシフィックに共同で提案し、会社をつくるのです」
「会社の名前は?」と彼は尋ねました。
「プルマン・パレス・カー・カンパニーです」と私は答えました。
これは彼にぴったりでした。そして私にとっても同じくらい好都合でした。
「私の部屋に来て、じっくり話しましょう」と、この偉大な寝台車の男は言いました。
私はそうしました。その結果、私たちは共同で契約を獲得しました。私たちの会社はその後、プルマン社全体に合併され、私たちは太平洋路線の権益と引き換えにその会社の株を受け取りました。その後1873年の金融恐慌のときに、鉄と鋼の事業を守るために持ち株を売らざるをえなくなるまで、私はたしかプルマン社の筆頭株主でした。
このプルマンという人とその経歴は、じつにアメリカ的なので、少し彼について語っても場違いではないでしょう。プルマン氏は、はじめは雇われの大工でしたが、シカゴの町をかさ上げしなければならなくなったとき、決められた金額で家を移動させたり持ち上げたりする仕事を、自分で請け負いました。もちろん彼は成功し、このささやかな始まりから、その分野で指折りの、もっとも名の知れた請負業者の一人になりました。何百人もの宿泊客に迷惑をかけず、営業にも一切差し支えないようにしながら、大きなホテルを10フィート持ち上げなければならないとなれば、その仕事はプルマン氏にお任せ、というわけです。彼は物事の流れを見通すことのできる、まれな人物の一人で、いわば流れのいちばん速い本流を、いつも泳いでいました。彼はまもなく、私と同じように、寝台車がアメリカ大陸では絶対に必要なものだと見抜きました。そしてシカゴで何両かの車両をつくりはじめ、シカゴに集まる路線との契約を取りつけていきました。
東部の会社には、プルマン氏のような並はずれた人物の会社と渡り合える力はありませんでした。私はすぐにそれに気づきました。元の特許は東部の会社が持っていて、最初の特許権者であるウッドラフ氏本人も大株主でした。数年訴訟を続ければ、特許侵害の損害賠償を勝ち取れたかもしれません。しかし、それが実現するまでにかかる時間があれば、プルマンの会社がこの国の大会社になるには十分だったでしょう。そこで私は、以前ユニオン・パシフィックとの契約で彼と手を組んだように、今回もプルマン氏と手を組むべきだと熱心に主張しました。プルマン氏と東部の会社の何人かとの個人的な関係はうまくいっていなかったので、双方と友好的な関係にあった私が交渉を引き受けるのがよいということになりました。私たちはまもなく、プルマン社が私たちの会社、セントラル・トランスポーテーション社を吸収することで合意しました。これによってプルマン氏は、西部に閉じ込められることなく、大西洋岸へと続くペンシルベニアの大幹線での権利も手に入れました。こうして彼の会社は、およそ競争相手の手の届かない存在になったのです。プルマン氏は、私がこれまでに知った中でもっとも有能な実業家の一人でした。そして私は彼から、ほかにもいろいろありますが、教訓を含んだひとつの話を教わったことに感謝しています。
心配ごとの9割は起こらない
プルマン氏にも、ほかのだれとも同じように苦労や失望があり、いつも的を射ていたわけではありません。そんな人はだれもいません。実際、寝台車を運行する事業につきまとう難題を満足のいくやり方で乗り越え、なおかつ鉄道会社が尊重せざるをえない権利をいくらか保ち続けることができた人は、彼のほかには知りません。もちろん鉄道会社は、本来なら自分たちで寝台車を運行すべきなのです。あるとき、お互いの経験を語り合っていると、彼は、いつもこの話に慰められているのだと話してくれました。西部のある郡に住む老人が、人の身に降りかかるありとあらゆる災難に、しかもふつうの人が出会うよりもはるかに多くの災難に見舞われてきて、近所の人たちから気の毒がられたとき、こう答えたというのです。
「そうとも、みなさん、おっしゃるとおりだ。わしは苦労ばかりの長い長い人生を送ってきた。だがな、その苦労にはひとつ妙なところがあってな。その9割は、実際には起こらなかったんじゃよ」
まったくそのとおりです。人間の悩みの大半は想像上のもので、笑い飛ばしてしまうべきものです。橋に着く前から橋を渡る心配をしたり、悪魔に出会う前から悪魔におはようと挨拶したりするのは愚かなことです。まったく愚かなことです。一撃が落ちてくるまでは万事順調ですし、たとえ落ちてきたとしても、10回のうち9回は、予想していたほどひどくはありません。賢い人とは、筋金入りの楽天家のことなのです。
ユニオン・パシフィック鉄道をめぐる苦い経験
こうしたさまざまな交渉がうまくいったことで、私はニューヨークでいくらか注目されるようになりました。次の大きな仕事は、1871年のユニオン・パシフィック鉄道に関するものでした。同社の取締役の一人が私のところへ来て、危機を乗り切るために、何とかして60万ドル(今日の何百万ドルにも相当します)を調達しなければならない、と言うのです。そして、私を知っていて同鉄道の執行委員会に加わっている何人かの友人が、私ならその資金を用立てると同時に、ペンシルベニア鉄道会社のためにこの重要な西部の路線の実質的な支配権を手に入れられるのではないか、と言っていたそうです。たしかプルマン氏がその取締役と一緒に来たか、あるいは、この件で最初に私のところへ来たのはプルマン氏本人だったと思います。
私はこの件を引き受けました。そして、ユニオン・パシフィック鉄道の取締役たちが、ペンシルベニア鉄道が推薦する何人かの人物を取締役会に選任してくれるなら、それによってペンシルベニア鉄道が得られる輸送量を考えれば、同社がユニオン・パシフィックを助けるのは十分に理にかなっている、と思いつきました。私はフィラデルフィアへ行き、トムソン社長にこの件を説明しました。もしペンシルベニア鉄道会社が、ユニオン・パシフィックがニューヨークで借金をするための担保となる証券を私に預けてくれるなら、ペンシルベニア鉄道の利益のためにユニオン・パシフィックを支配できる、と提案したのです。トムソン氏が私に示してくれた数多くの信頼の証しの中でも、これはそれまでで最大のものでした。彼は自分のお金よりも、鉄道会社のお金を扱うときのほうがはるかに慎重でしたが、差し出された賞品は、見逃すにはあまりに大きすぎました。たとえ60万ドルを失ったとしても、彼の会社にとって損な投資にはならなかったでしょう。それに、その危険はほとんどありませんでした。ユニオン・パシフィックに貸し付けるのと引き換えに受け取る証券を、私たちはそのまま彼に引き渡すつもりでいたからです。
トムソン氏との話し合いはフィラデルフィアの彼の自宅で行われました。私が帰ろうと立ち上がると、彼は私の肩に手を置いて言いました。
「いいかい、アンディ、この件は君が頼りだ。私が信頼しているのは君なんだ。君が手に入れる証券をすべて手元に保管して、ペンシルベニア鉄道が1ドルたりとも損をするような立場に決して置かれないよう、目を配ってくれるものと当てにしているよ」
私はその責任を引き受け、結果は大成功でした。ユニオン・パシフィック社は、トムソン氏自身に社長になってほしいと強く望みましたが、彼はそれはとても無理だと言いました。そしてその職に、ペンシルベニア鉄道の副社長トーマス・A・スコット氏を推薦しました。こうして1871年、スコット氏、プルマン氏、そして私がユニオン・パシフィック鉄道会社の取締役に選ばれました。
貸し付けの見返りに受け取った証券は、ユニオン・パシフィックの株式300万ドル分で、一定の価格で引き取る選択権つきで、私の金庫にしまわれていました。予想どおり、ペンシルベニア鉄道の一派が加わったことで、ユニオン・パシフィックの株の価値はとてつもなく高まりました。株価は大幅に上がりました。このころ私は、オマハでミズーリ川を渡る橋のための債券をロンドンで販売する交渉を引き受けていました。私がその仕事で留守にしているあいだに、スコット氏が私たちのユニオン・パシフィック株を売ることにしたのです。私は秘書に、この事業の仲間の一人であるスコット氏には金庫室を開けさせてよい、と指示を残していました。私の留守中に、だれかが証券を取り出せるようにしておく必要があるかもしれなかったからです。しかし、それが売られてしまうとか、ユニオン・パシフィックに関して私たちが手に入れたすばらしい立場を失うことになるとかいう考えは、まったく頭に浮かびませんでした。
帰ってみると、私はユニオン・パシフィックの取締役たちの信頼される同僚どころか、彼らを投機の目的に利用した者と見なされていました。偉大な事業に自分たちを結びつけるのに、私たち4人ほど恵まれた機会を得た者はいませんでした。そして、これほど無謀に機会が投げ捨てられたこともありませんでした。プルマン氏はこの件を知らず、私と同じように憤慨していて、たしか彼はすぐに利益をユニオン・パシフィックの株に再投資したはずです。私も同じようにして、なされたことを否認したいのはやまやまでしたが、私にとって最初の友であるスコット氏からそれほどはっきりと離れるのは、見苦しいことであり、恩知らずなことでもあるかもしれない、と感じました。
最初の機会に、私たちは不名誉にも、しかし当然の報いとして、ユニオン・パシフィックの取締役会から追い出されました。若者が飲み込むには苦い薬でした。そしてこの取引は、それまで私にいちばん大きな影響を与えてきた人、少年時代の親切で情け深い雇い主だったトーマス・A・スコットと、私が初めて深刻に意見を異にした出来事になりました。トムソン氏はこのことを残念がりましたが、彼の言うところでは、この件にはまったく目を配っておらず、すべての管理をスコット氏と私の手に任せていたので、私が売るのがいちばんだと考えたのだろうと思っていたそうです。ユニオン・パシフィックに関わっていたモートン・ブリス商会のリーバイ・P・モートンという大切な友人を失ってしまったのではないかと、しばらくのあいだ心配しましたが、彼も最後には、私に罪がないことをわかってくれました。
オマハ橋の建設のための250万ドル分の債券についての交渉はうまくいきました。ただ、これらの債券は、私が同社に関わる前に、ユニオン・パシフィックの関係者たちが買い取っていたものでした。ですから、交渉はユニオン・パシフィック社のためではなく、その人たちのために行われたのです。ロンドンへ発つ前に私と話をした取締役は、このことを説明してくれませんでした。不運なことに、ニューヨークに戻ってみると、私の利益分も含めた債券の売却代金は、その関係者たちが自分たちの借金の返済にすべて使ってしまっていました。こうして私はかなりの額をだまし取られ、自分の経費と時間は損失として処理するしかありませんでした。だまされたこと、そしてそれをこれほどはっきりと確実に思い知らされたことは、それまで一度もありませんでした。自分はまだ若く、学ぶべきことがたくさんあるのだとわかりました。多くの人は信頼できます。しかし、目を光らせておかなければならない人も、少しはいるのです。
