フォード『前進』全訳(3)労働に奉仕するのか、労働を省くのか

この記事は、フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォード(1863〜1947年)が、サミュエル・クラウザーの協力を得て1930年に出版した『Moving Forward』を、新規事業ポータルが独自に日本語へ訳したものです。原文は著作権の保護期間が終わっており、Project Gutenberg Australia で公開されているイギリス版(1931年)をもとにしています。100年近く前に書かれた内容なので、当時の価値観や表現もそのまま含まれています。訳文では、原文の趣旨を変えないことを優先しました。

連載の構成(全21回)

  1. 富に至る道
  2. 生産過剰への恐れ
  3. 労働に奉仕するのか、労働を省くのか(この記事)
  4. 賃金の位置づけ
  5. 失業か、余暇か
  6. 余暇の価値
  7. 年齢の問題
  8. 貧困をなくすために
  9. 新しい職人技
  10. 経営と規模
  11. ひとつの産業を切り替える
  12. 柔軟な大量生産
  13. 変わりゆく光景
  14. 100万分の1インチ
  15. 190隻の船の話
  16. 方法を海外へ持ち出す
  17. 海外での仕事
  18. 指導者を育てる教育
  19. 禁酒か、貧困か
  20. 前進
  21. お金の限界

第3章 労働に奉仕するのか、労働を省くのか

機械を、労働を省くための手段、つまり雇い主がより少ない人数で済ませるための方法としてしか見ないなら、機械は誰にとってもつらいものになるかもしれません。最初の動力織機を打ち壊した労働者たちは、彼らなりの見方からすれば筋が通っていました。実際、動力や機械の導入に対する反対には、どれも無理もない根拠があったのです。その反乱は、ほとんどの人は気づいていませんが、機械を単に手作業の代わりとして使うことに向けられたものでした。「省力(レイバー・セービング)」という言葉が広く使われていること自体、機械の役割がいかに理解されていないかを示しています。機械は、労働に奉仕するものでないかぎり、存在する理由がないのです。

生産のために機械を正しく、しかも利益の出るように使うには、昔の手作業の時代、あるいは機械が人の力を補う道具にすぎなかった時代に考えられていたものとは、まったく違う産業組織の考え方が必要です。後者こそが、本来の意味での機械時代でした。しかし実のところ、機械時代はもう過ぎ去りました。私たちはいま、機械をどうすればもっともうまく私たちに奉仕させられるかを探っている最中です。機械はいまや、新しい秩序の一部にすぎないのです。

このことは、まだ十分には理解されていないようです。今日の考え方の多くは、労働に奉仕する機械を、手作業の社会に当てはめようとする段階にとどまっています。そんなふうに当てはめることはできませんし、機械のせいにされていることの多くは、私たちが身を置いている新しい生活を理解していないせいにされるべきものです。私たちは、物をいつまでもより豊かに手にしたいのなら、昔の孤立した自給自足の社会の伝統をすべて守ることはできない、ということに気づいていません。雇われる人と雇い主とのあいだの、昔ながらの依存関係を守ることもできません。世の中は私たちの誰に対しても生活を保障する義務を負ってはいませんが、私たちは皆、お互いに生活を支え合う義務を負っているのです。

ある産業の動きについて人々が騒ぎ始めるころには、その動きはたいてい下火になっているか、形を大きく変えているようです。予言者たちが集まって、いつどのように災いがやってくるかを決めるころには、彼らが災いを予言する根拠にした状況はもう変わってしまっています。機械についてもいつもそうでした。ときどき、このテーマを十分に知らない誰かが、何が起きているかについて大まかな考えを持ち、予言や予測を始めます。その予言の基調は、世界はやがて機械でいっぱいになり、人間の居場所がなくなる、というものです。

たしかに、人に取って代わる機械もあります。しかしそれは、機械の発展の一段階にすぎません。溝を掘るのは、大勢の人夫よりも動力ショベルのほうが効率よくできるかもしれません。しかしそれは人間のためになる置き換えです。シャベルで土をあちこちへ動かすだけの仕事は、人間らしい仕事ではないからです。溝を掘る費用が安くなれば、もっと多くの溝が掘られるようになります。溝が安く掘れることから生まれる多くの結果のなかには、排水がよくなって健康が増すこと、管の需要が生まれること、見苦しくて危険な電線を取り除けることなど、いくらでもあります。やがて、溝掘り機は誰にとっても恵みであると同時に、かつて溝を掘っていた人にとってこそ格別の恵みであることがわかってきます。その人に、新しくよりよい仕事を開いてくれるからです。

動力で動く機械は道具にすぎません。どれほど高度に発達した機械でも、道具にすぎないと考えれば、事情はいくらか理解しやすくなります。物差しは道具ですが、仕事を奪うという意味で労働を省くわけではありません。測るという要素がなければ、産業は成り立ちません。のみは労働を省くのではなく、それがなければできないことを人にできるようにしてくれます。一流の大工一人は、洞窟に住んでいた人間千人よりも、多くのよりよい建物を建てることができます。大工は千人に取って代わるのではなく、道具を持たない彼らにはできなかったことをしているだけなのです。もし大工が、自分の道具一式で板をつくるために木を切り倒すところから始めなければならないとしたら、板が届けられる場合よりもはるかに少ない仕事しかできません。伐採や製材が機械で行われていれば、板は仕上がった状態で届き、大工はそこに腕と筋力の両方ではなく、腕だけを使えばよいのです。機械が大工に奉仕したのです。この国で、煙突掃除人がいなくなったことを惜しむ人はいません。それでも煙突掃除は、かつては多くの人々の生計の手段でした。

働く人が、仕事をするために何らかの道具を必要とすることは誰にも否定できません。しかし、道具が精巧になったせいで、仕事が増えるどころか減ってしまう、という点はあるのでしょうか。産業は人々に仕事を与えるために存在するのか、それとも人々に品物を与えるために存在するのか、という点を論じる必要はありません。低いコストと高い賃金のあいだに対立がないのと同じように、品物を提供することと仕事を提供することのあいだにも、たまたま対立はないのです。機械が、それがどれほど単純であれ複雑であれ、品物をできるだけ安い価格で自由に流通させること以外の目的に使われれば、生産と消費の釣り合いが損なわれ、人々の仕事は少なくなるでしょう。しかしそのときには、機械がつくる製品の買い手も少なくなり、機械は持ち主にとって重荷にしかならなくなります。機械を、労働に奉仕するものではなく労働を省くものと見るなら、機械は脅威になるかもしれません。けれども、その責任は機械にではなく、機械を管理する人にあるのです。

機械の発達が脅威になるような点はありません。鉄ののみは火打ち石ののみよりよく、鋼ののみは鉄ののみよりよいものです。のみの切れ味をよくしすぎて、それが脅威になるような点がありうるでしょうか。

明らかにありえません。この理屈には大きな誤りがあります。それは事実ではなく、ひどく表面的な推論に基づいています。その推論の多くは、過去に誰かが機械を「省力」と呼んだからというだけで、機械は単に「労働を省く」ものだと思い込むという誤りから出発しています。今日の重要な機械のほとんどは、もっと広い意味で言うのでなければ、労働を省いてはいません。手ではできないことをしているか、あるいは機械が現れて製品を誰もが求められるほど安くしていなければ、そもそも行われることのなかったことをしているのです。

動力は人の力の代わりではない

自動車は、機械によって可能になった何百もの商品のひとつにすぎません。自動車を人間の力の延長にすぎないと見ることもできますが、実際には自動車はそれ自体でひとつの独立したものです。人はローラースケートを履けば歩くより速く進めますし、自転車に乗れば自分の力をさらに効率よく使えます。しかし自動車では、人が担うのは操縦と制御だけです。その人自身の力は重要ではありません。ですから自動車は、実のところ省力の道具などではまったくないのです。それがなければ行われなかったことを可能にしているのです。型鍛造機は、ある意味では、人が重いハンマーでできるかもしれないことをしています。しかしアプセッター(金属の小片を押しつぶして形をつくる機械)は、人間には出せない強さと力を必要とすることをしています。1925年まで、私たちの工場が1か月に使う電力は3,000万キロワット時に達したことがありませんでした。月に4,000万キロワット時に届いたのは昨年が初めてでしたが、いまでは6,000万キロワット時前後になっています。これほどの量の動力を、奴隷に置き換えて考えたり、人の力の代わりとして考えたり、あるいは何であれ人間の尺度で考えたりするのは、実態をゆがめるだけです。人間の力をどれほど集めても、ひとつの場所でこれほどの力を出すことなど、とうていできないからです。

動力は、それだけでは何の役にも立ちません。機械を通して使わなければならないのです。人を通して使うことはできません。ですからこうした機械は、人間の手の単なる延長以上のものです。それは労働に奉仕するものであって、労働を省くものではありません。省かれた労働という言い方で機械を説明すると、世の中にはなすべき仕事が決まった量しかなく、それを人でやるか機械でやるかの選択がある、という考えが入り込んでしまいます。そんな選択はありません。その仕事は、そもそも人間にはできないのです。

かつて人間がしていた仕事をさせるために機械を導入すると失業が生まれる、とかなり広く信じられています。しかし、ふつうはそうはなりません。機械が正しく使われれば、以前より多くの雇用を生み出し、移り変わりの時期も長引いたり苦しいものになったりはしないからです。大きな失業が生まれるのは、技術の進歩によって産業がまるごと消えてしまうときや、科学や実務の進歩についていくことを拒む産業や産業の一部においてです。産業の指導者たちがしっかり目を覚ましていれば、失業が長引くことは決してありません。寝過ごした産業だけが、目覚めたときに自分たちが必要とされていないことに気づくのです。そして、眠りこけた産業が終わるのは、いつも私たちにとってよいことです。そうした産業は決まって低賃金の産業だからです。

精度が変えた機械と働き手

かつては、大量生産は大ざっぱなものにならざるをえないと当然のように考えられていました。機械は熟練工ほど正確ではないと思われていたのです。私が初めて自動車の大規模生産に乗り出したころ、100分の1インチの公差は、きわめて高い精度の部類に入っていました。しかし一般の人々は、とりわけ自動車については、よりよい出来ばえを求めるように目が肥えてきました。そのため、いまでは1,000分の1インチの公差は当たり前で、1万分の1インチの公差も珍しくありません。これほどの精度は、もっとも費用のかかる熟練の手仕事以外では考えられないものでした。以前の機械や生産方法では、この精度は出せなかったでしょう。

生産と設計は一体でなければならない、ということは、いくら繰り返しても繰り返しすぎることはありません。どんな部品でも寸法どおりぴったりにつくれる道具は、まだ考え出されていません。絶対的な正確さにもっとも近いのは、私たちのヨハンソン・ゲージ部門です。ここでは、私たちのすべての事業で使われるゲージを管理しています。設計図には、部品の正確な寸法が書き込まれます。この正確な寸法どおりにいつもつくれるとはかぎらないので、寸法のほかに、いわゆる「許容公差」が記されます。これは、部品が指定された寸法より、ある一定の割合のインチだけ大きくても小さくてもよい、という意味です。

何年も前に私たちが大量生産を始めたころ、公差はかなり大きなものでした。それでも、それまでに大量につくられたどんな機械よりは小さかったのです。そうならざるをえなかったのは、それ以上に精密な仕事ができる機械が存在しなかったからです。年月がたち、よりよい機械を開発するにつれて公差はずっと小さくなり、ついに私たちの事業全体で設備を入れ替えたときには、精度を大きく飛躍させることができました。1万分の3インチという許容範囲をかなり一般的なものにし、いくつかの部品では許容範囲を1万分の1インチに設定しました。この精度は、単に腕試しとして求めているのではありません。機械の部品がぴったり合っていればいるほど、その機械はよい仕事をし、長持ちします。私たちのいまの製品のエンジンは、以前のエンジンよりほんの少し大きく、ほんの少し重いだけですが、出力は2倍です。大量生産において新しい次元の精度を実現しようと取り組んでいなかったら、そのようなエンジンを設計することはできなかったでしょう。ここで注目すべき事実は、それが機械の役割と、機械とともに働く人々の性格を根本から変えたということです。1,000分の1インチが、人の雇用に大きな影響を及ぼすことがわかりました。その影響は、このテーマについての一般的な考え方とはまったく逆のものです。粗い機械では、人は機械の一部となって機械と一緒に動かなければならず、そういう状況では、ひとつの作業に限定されているときにいちばん力を発揮します。私たちはその原則を、それまで誰も進めたことがないほど先まで推し進めました。実際、それが道の途中の一段階にすぎないことがわかるほど先まで進めたのです。働く人たちは、科学的管理法をかなり広く疑ったり、それに抵抗したりしてきましたが、この点で彼らは、たいていの経営者が認めたがる以上に、本能的に正しかったのです。人が機械にされることに抵抗するのは正しいことです。私たちはコンベヤーの速さで人の作業の速さを調整し、無理のない一定のペースで、大量で経済的な生産ができることを見いだしました。そしてそれを賃金の水準と販売価格に反映させることができたのです。製造上の節約は、賃金と販売価格の両方に振り向けられなければ、やる価値がありません。節約をすべて販売価格に回してしまうのはよくありません。そうすると、賃金で暮らす人たちが見込み客の仲間に加わらないからです。そして節約をすべて利益に回すのは、ひどく近視眼的です。利益は比較的少数の人々のところへ行くだけで、消費にはほとんど影響を与えないからです。

私たちはまず重労働をなくすことから始めました。すると、多くの手作業や、機械を完全に手で操作しなければならない作業の代わりをする機械を考案できることがわかりました。このことから、すぐにひとつ以上の作業をこなす機械へと進みました。たとえば、いくつもの穴を一度に開けたり、ひとつの部品にいくつもの作業を同時に行ったり、さらには自動機や半自動機で部品をまるごと仕上げたりする機械です。全自動機は人の手をまったく必要としない機械で、半自動機は、少なくとも未完成の部品を入れて完成した部品を取り出すために、係の人を必要とする機械です。こうして私たちは、労働を細かく分ける分業は人の力を前提にしたもので、機械の力の可能性を見落としていた、ということを学び始めました。そこで、多くの作業を同時にこなす機械を探し始め、以前のように作業を分けるのではなく、まとめるようになりました。これが自動機械への道です。

いまの課題は、どんな寸法の精度が求められようと、品物を完全につくり上げる自動機械の原理を見いだし、その設計をつくり上げることです。ちょうどいま、非常に高い精度が必要で、900人を雇っている仕事がひとつあります。その仕事はすべて、適切な種類の機械とごく少数の係の人とで、はるかにうまくこなせるはずです。そういう機械を考案しなければなりません。正確な大規模生産には、人間の労働のコストと誤りを減らすために、いまや自動機か、それに近い機械が欠かせません。そして、こうした機械はまもなく非常に多く必要になるので、その製造は特殊な仕事の枠を出て、大量生産の部類に入るでしょう。

新しい時代の働き手

こうして機械は急速に発達し、生産において昔の職人が占めていた位置を担うようになっています。これは利点です。生産量を増やすと同時に、人々が稼げる額も増やすからです。手作業なら1個しかつくれないところを100個つくれる機械を使って働けば、より多くの人が品物を手にすることができ、同時にその人は、より高い稼ぐ力を示していることになります。実際に品物をつくる機械、その機械をつくる機械の製作を手伝う人は、品物の生産にたずさわるもっとも熟練した人よりも高い賃金を受け取れる立場にあります。高い生産の手段を提供しているからです。そして、機械そのものはひとつの目的しか持っていなくても、機械をつくったり管理したりする機械工は、何でもこなせる人でなければなりません。これは、予想されていなかった機械の発展のひとつです。

実際の発展は伝統とはまったく逆の方向に進んでおり、ほとんどどんな種類の機械でもすぐに扱い方を覚えられる、万能の機械工や職人として自分を見るように人々を育てるには、何年かかかるでしょう。熟練した手仕事の職人の居場所は、いつの時代にもあるでしょう。彼らは芸術家であり、そのように見られるべきだからです。しかし彼らが生産に使われることはないでしょう。機械でも同じくらい、たいていはもっとうまくできる仕事に、芸術家の時間を浪費させても意味がないからです。

職人の心は誰の中にもあるのかもしれませんが、本当の職人になれる能力は、ごく少数の人にしか与えられていません。そしてその少数の人は、どんな状況でも頭角を現すものです。ふつうの平均的な人は、どんな仕事を与えられても、その仕事についてある程度のことを覚えるだけで、それ以上は覚えません。そういう人が、知識への激しい渇望を抱えた、知的に飢えた人間であるかのように装っても意味がありません。本当はそうあるべきなのかもしれませんし、いずれそうなるのかもしれませんが、これまでそうだったことはなく、今日もそうではありません。一人前の機械工や職人の大部分は、仕事に持ち込めるある程度の技能しか持っておらず、ふだんと違う状況に対応できるのは、ごく例外的な人だけです。一流の仕事をするためには、彼らを導き、監督しなければなりません。

ですから職人の世界の流れは、一方ではより高度な専門化へ、他方ではより大きな自由へと向かっています。たとえば大工仕事では、以前は大工が現場でつくっていた建物の特殊な部分が、いまでは工場の専用機械で組み立てられ、大工は現場でそれを据え付けるだけになっています。特殊な要求から解放されたことで、一人ひとりの仕事の範囲を広げる機会、あるいは必要が生まれます。そのため、いまでは多くの分野で役に立つ方法を心得た世代の人々が現れています。彼らは実際、ひとつの仕事だけを知っているのではなく、6つほどの仕事について、ほどほどの知識を持っているのです。「何でも屋」という昔の皮肉は、もうはやりません。いまでは、仕事をするうえでどんな知識も無駄にはなりません。ごく単純な品物をつくるにも、以前はばらばらだった多くの種類の仕事がかかわってくるので、本人が望むと望まざるとにかかわらず、人は多才にならざるをえないのです。私たちは、人はどの仕事でも専門家の域には達しないかもしれないけれども(昔の仕組みのもとでも、そこに達した人はほとんどいませんでした)、6つほどの種類の違う仕事を、ひとつの仕事と同じくらいたやすく、ほどほどに身につけられることを発見しました。自分が何をしているのかを理解しながら幅広い仕事をこなせることは、近代的な産業が必要とする、新しい種類の万能の働き手に欠かせない特徴です。こうした働き手はかなり速く育ちつつありますが、私たちが事業の設備を入れ替えたときには、もしもっといれば、さらに多くの人に働いてもらえたでしょう。

ここは変化の世界です。どんな産業も立ち止まってはおらず、どんな産業の単位も立ち止まってはいません。この国のどの会社も、それが果たしている奉仕がどれだけ必要とされているか、そしてその仕事ぶりがどれほどのものかに応じて、前に進んでいるか後ろに下がっているかのどちらかです。大きな製造会社を、永遠に続き、大勢の人々の生計の源であり続ける機関と考えるのは、とても心安らぐことです。しかし、そんなことはありえません。ただ幸いなことに、ひとつの産業が消えていくときには、必ずもっと大きく重要な産業がその座を占めてきました。

工場も仕事も、恒久的なものとみなすことはできません。どちらも一時的なものです。仕事を決まった収入を生むものとして見る考え方は、見直す必要があるでしょう。そのような固定したものはありえないのです。産業は、役に立つあいだだけ存在するものです。その時点を過ぎたら、存在するべきではないのです。


第2回:生産過剰への恐れ

第4回:賃金の位置づけ